PSE法で明らかになった無責任な当事者の力

中古販売について経済産業省と販売業者がそろって何も考えなさすぎだったという見方もできるが、どちらかというと「この法律は俺らには不利益だ。理屈なんてどうでもいいからやめろ」というヒステリックで無理解かつ弱者保護万歳的なシュプレヒコールが関係者をうんざりさせたという色のが強い気がする。

まぁ本来「国民に広く理解を求める」活動が必要なはずの国がそれを怠っていたのも事実なので今回の妥協はあながち間違ってはいない。だが今回の対応を見ると…

  1. 全国で中小事業者に対し、検査に必要な機器を無料貸し出し
  2. 中小事業者の要請に応じて、6ヶ月間の無料出張検査サービス
  3. 都道府県など自治体に対しても、上記のような対策実施を要請
  4. その他の民間団体に対しても、検査実施の支援要請

※引用元:コデラノブログ

これによって国庫にとっての負担はまた増えるわけで、目先の勝利に酔ってるうちにまた税金が上がる理由をひとつ増やした国民というやつはどうなんだろうとも思う。まぁこういう事例がなくても税金は上がるといえばそうだが。

もちろんこれは中古オーディオを中心としたヴィンテージに大した拘りがないからこそ言えることだ。目的が「自分がこれからも物欲を満たす」という着地点があるが故に戦える立場と、冷ややかにテレビの向こう側を眺めている立場で意見が違うのは当然である。

それにしてもPSEがこれだけひっくり返せるのに障害者自立支援法がひっくり返らないこの国というやつは、弱者保護がいかに奇麗事に過ぎないかを思い知らせてくれる。権力者だけではない、今生活がとりあえず出来ている大半の連中が自分たちのこと以外にてんで無関心なのだ。

というわけで今回の件について私はどちらかというと国に同情的だったりする。民主主義が自らを滅ぼす力を持っているという端的な例に思えたからだ。マスコミも自分たちに損得が絡まないせいでガンガン関連情報を流したし。

せめて今回の件が「国民に対する広い理解を事前に求めるようにしないと後々面倒だ」というお役所への教訓に…絶対ならないだろうな。うん。

人型ロボットがもたらす愚か者認定

別に労働力としての人間がロボットに侵略されるとかそういう意味じゃない。ロボットの所持/非所持および活用方法の差異によって発生しうる、コミュニティにおける各個人の精神的立ち位置の問題である。

家事は主に以下の要素から成る。

  • 炊事
  • 洗濯
  • 掃除
  • 育児
  • 送迎
  • その他雑事(新聞や手紙をとってくる、飲み物や食べ物を運ぶ、電気を消す、風呂を沸かすetc)
  • 情事(苦笑)

まぁ言い出せばきりがないわけだが、おそらくこうした種々の要求に対応できるロボットはいずれ開発されてしまう。あとはそれが普及と大衆化に伴って低価格化・高性能化・最適化(老人介護向け・看護向け・単身赴任向け)とかになっていくだけだ。多分単身赴任向けにはげふんがふん

閑話休題。ロボットが家庭内サービスを可能になるとサービスの水準が上がる。何故かって標準化されてしまうからだ。おそらく上記のようなサービスはロボットによって「一定以上の水準」が大衆の中で常識化する。そうなると困るのは「ロボットを導入できない貧困層」における代理としての家族員だ。

貧乏暇無でも幸せなんて理想像が実現できるならいいんだが、大半の貧乏暇無はそれが故に精神的余裕がない。だから他人に任せた仕事の手際が悪かったりすると苛立つことになったりする。その一方でテレビの向こうではロボットによって高水準に保たれた家庭像が映っていたりする訳だ。はいこの時点で家庭内において「任せられた役割」を満足にこなせない落ちこぼれちゃんは「ロボット以下」決定である。

まして義務教育における集団生活では、家庭水準の差がモロに出る。たとえロボットが家事をまかなえるようになっても数年は家事を行い続ける人間が大半だろうし、ロボットという無機に抵抗を覚えてむしろしっかりと「人間の仕事」としての家事に熱を入れるような連中も少なからず発生するだろう。

さてそうなった場合「ロボットが家事を担う家庭」と「親世代が家事を担う家庭」では歴然たる差が子に発生する。何故なら子というものは(ほめてもらいたいからとか大変そうだからという理由で)「親を手伝おう」という発想はする可能性がそれなりにあるが、「ロボットを手伝おう」なんて発想は相対的に起こりにくいだろうし、何より起こってもロボットは手伝われることに対応するよう出来ていないだろうからだ。これはまちがいなく付加機能であって、一般中流家庭に普及するロボットに備え付けられる要素ではないと予想する。たまたま家にいたのが介護向けコミュニケーションロボットならまだ望みはあるが、事務用じゃ無理だ。

そうなると、家事に対する子どもの感覚は劇的に二分される。でもきっと人の目に格好良く映るのは「家事ができる」人間であることは変わらないだろう。まぁもともとロボットが代理するようになった家庭の家事事情はロボットがいなくてもpgrかもしれないわけだが、それでもより顕著になるような気はする。つまり「家事が出来ない」子どもたちは「ロボットにもできるようなことさえできない子ども=ロボット以下」として格好の攻撃対象になるだろう。あるいはロボット任せの家庭が大勢を占めてきたら「(教育の現場において)最初から家事ができる」子どもたちは「ロボットに任せて当然なことができる人間=人間ロボット(造語)」とか呼んで冷やかすこともできるわけだ。

まぁいじめなんてのはネタが何であれ起こるので、ロボットがあろうがなかろうが少なからず発生するわけだが。問題はこれによって「ロボット害悪論」が発生することのほうで。またいらん社会学者どもとマスコミが飯の種にしそうでやな感じだ。

むしろそれ以前に「専業主婦」が滅びるとかそういう論が出てくるだろうと言われそうなんだが、私は次世代にしか注目してないので主婦の地位はあまり重要ではない。あるとしたらその姿を見て育つ子どもへの精神的影響度の方が心配だ。

要は、ロボットの家庭浸透はそれの所持/非所持およびその活用法によって、家庭水準の階級をより顕著に浮き彫りにするだろうということである。無論「ウチはロボットなんぞいらん。人のぬくもりこそ第一だ」とかいくらでも言いようはあるわけだが、世がどう見なすかは自認とは関係ない。「ロボットのひとつも買えないの?」とか煽ることはいくらだってできるのだ。

とかいうことをHRP-2の記事を読んでいて思った。
http://pc.watch.impress.co.jp/docs/2006/0131/kyokai42.htm

携帯電話がこれだけ開発の意図に反して普及した社会。ロボットの浸透にも言うほどの抵抗はないような気がするのだ。あくまで気がするだけ。

気付いても止められない自己顕示欲

ls氏がうさだBlogで実に怖い自己分析をなさっている。

MMORPG 世界に存在する 3人種
http://lovelove.rabi-en-rose.net/blog.php?n=171

このうち、この書き手であるls氏は3番目「ゲーマー」に当たる。ということを分かって書いている。つまり氏は自分の方向性が孤独であると分かっていて、それは氏自身の本望ではないにも関わらずそれを続けている。ただし「馬鹿扱いされる」という書き方をしているので、必ずしも馬鹿だとは思っていないとも言える(相対論だろうが)。

氏の基本的な色として「事実に基づいたことを書こうとする」という方向性がある。これはおそらく、偽春奈のときに生じた数々の誤解や妄想、それに基づいた誹謗中傷に辟易しきってしまったせいだろう。このため氏は可能な限り自己体験を行った上でモノを書いている。この姿勢は「評価者」として非常に好ましいと言え、純粋に敬意を覚える。むしろ勿体無い。何がってゲーム評価にそれを費やしている点が。

ゲーム評価というのは基本的に売上のための広告媒体で、雑誌や口コミで「○○が面白いらしいよ」「××はすごい」とかいう話からゲームを大衆に広めていくための技術だ。意識的に仕掛ける誰かから、いつのまにか無意識的にそれを広めてしまうユーザ層に広まっていけばOK。無意識層にとっては本当に面白いので嘘臭さもだんだん消えていく。だからこそ一番最初が肝心で、ゲーム雑誌がビジネスとして維持されている理由がここにある。いや、編集部は苦労してるんだけどね…攻略記事とか特に。まぁ雑誌として面白いかどうかは編集部の苦労とは関係ないのでいいんだけれど。

基本的にゲームに時間を費やすという行為は、後に自身がゲーム製作を行う上で参考にする以外での経済・技術的利点はない。無論、正しい書評やゲーム生活記そのものが生業となるなら話は別だが、これは超例外的存在なので割愛する。つまり氏は無駄をやっていることになる。それは氏が上記MMO人種分析や過去の記述で綴っていることそのものだ。

大半のゲーマーはその根拠が何であれ、それが楽しいかあるいはやめられないからゲームをやっている。氏はそうした傾向を露出させることを好むが故にこうした書評を行っている。つまり氏はこうした活動が楽しい、あるいはやめられないのだ。麻薬中毒者を餌とした麻薬中毒。うん、実に不毛だ。
同じ穴の狢は、同じ穴で蹴落としあう。私とて一銭にもならぬ文字列をネットに綴っている身の上だから、人のことは言えないのだけれど。同類かどうかは氏や他の方々の評価に委ねる。そんなことはどうでもいいことだし。

だが、こうした記述を見ていて思う。事実を論拠とした「正確な記述・言述・意思伝達」が出来たとしても、それ自体には何の意味もない。カネと地位に結びつけるつもりなら舞台を間違っている。でも氏はそれさえ分かってこれを続けている気がする。

氏に救いがあるとしたら、この露悪趣味的文章を楽しんで読んでいるネット中毒者がそれなりの人数いるということだろう。氏はそれらの人々に、ひとときの楽しさを提供できている。きっとそれが、氏の「自己顕示」だ。

最後に自己満足を。クリスマスイブにこんなこと書いている自分に、乾杯。

既に知的好奇心を擽らないインターネット

ITmedia "「金、金、金」だった2005年のセキュリティ界"
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0512/20/news014.html

これを別の見地から図ると、2004年以前に存在した「この技術でどんな冒険(イタズラ)ができるか」というものを金欲抜きで行えるタイプの「知的好奇心に基づいて既存技術を活用するアレンジ能力発揮型」人間は既にインターネットに新たな可能性を見出せなくなっているとも言える。

ひとくちに技術者と言ってもいろいろいる訳だが、マクロ的観点で二つに分けるとすると、以下のようになる。

  • 既存技術では不可能だったものを可能にする基盤技術を作る「創世者」
  • 既存技術を活用することで利便性を上げる「活用者」

この二つは決して別個ではないが、基本的に前者になってしまった者はそれにかかりっきりで、後者としての立場での活躍はそれに専念している者に対して小さくなる。結果、世に言う「ハッカー」と誤って称されるクラッカー連中は往々にして後者であることが多い。

クラッカーにとってクラックは生活のための必須手段ではない。それは往々にして遊びであり、自己満足であり、それに慌てふためく他者を嘲笑う一手段であり、時には副産物として金銭を巻き上げることができるかもしれない可能性である。彼らはそのためだけに今までなかったものを根底から生み出すほどの力を割くことはできないし、その能力もないからこそその立場にいる。彼らにできることは「システムの隙間」を重箱の隅をつつくように見つけ、それを攻撃するための具体的な手順書を書くことだけだ。その標的となる「システムの隙間」というやつはシステム開発元が見落としていた構造欠陥であったり、システム管理者が見落としていた設定ミスであったりする。

だが彼らは飽きてしまった。この世の中に欠陥はありふれていて、どんなにそれを嘲笑っても愚か者は減らない。どんなにそれがニュースになっても、ちゃんと次の攻撃先がどこかに残っていて、彼らはいつでも同じニュースを流せる。でも流れるニュースは同じようなことを言うばかりで、何の新鮮味も面白さもない。それは彼らにとって「自分たちがやっていることは無意味」であることを無意識的に思い知らせてしまったのだ。

だってそうだろう? どんなに自分たちが「お前らが使っているシステムにはこんなに穴があるんだぜ」って教えてやったって、穴だらけのシステムが今でも当たり前のように動き続けているんだ。それは翻せば、システムの穴を攻撃する俺たちが無視されているのと同じじゃないか。だって何度ニュースになったって、同じことが起こせる場所はすぐそこにあるんだから。

だから純粋な「試行」目的でインターネットを相手取ったクラッカーは既にその目的を達成し、次の舞台へ旅立ってしまった。残ったのは「穴から金を吸い取る可能性」を主眼に置換え、その為に恥的な試行錯誤を繰り返す連中のみとなったわけだ。

インターネットは成熟を通り越して腐敗に至った。それはもう止まらないからこそ、技術者は次を探し、あるいはもう辿り着いている。

読解力を問う…にしてもなぁ

『月刊FACTA』というネットジャーナリズム活動してる所がある。
(ということにしておこう。解釈面倒臭いから)

彼らはソニー叩きを釣餌に読者を集めた典型的な寄せ集め情報発信媒体なのだが、それはここでは置いておいた上で以下を読む。

自分の恥部に「ぼかし」を入れるジャーナリズム
http://facta.co.jp/blog/archives/20051213000013.html

これを要約すると以下のようになる。

  • 「国がKGBにスッパ抜かれていた!」という報道がされる。
  • 上記報道は「マスコミ内部はKGBにスッパ抜かれていました、テヘ」というマスコミの汚点を責任転嫁するために行われた言葉のすり替えである。(実際、政局内部にもアカはいましたが)
  • 紹介されているブロガーは全面的に外務省を責めている。つまり「マスコミが自分たちの責任(恥部)を「ぼかし」た」という事実に気が付いていない。

これ自体はもっともなことなのだが、狙うべき読み手を間違ってるよなぁ。何故かって紹介したブログの文面をさらりと読み解くにはレフチェンコ関連の前提知識、欲を言えば共産圏が行ってきたスパイ活動に関する歴史的背景に対する知識がなければならない。前提知識なしで読んだ場合、ただでさえ冗長な舞台背景説明にいきなり今まで触れていない固有名詞が出てきて理解不能になる人続出のように思える。しかもこの投稿で問うメインテーマはこの事件そのものとまったく関係ないといった始末だ。

前提知識がある奴らはそもそも問題の所在はどこなのかなんてことはちゃんと分かっていて(その責任を政府に問うのかマスコミ自体に問うのかは別として)、「政府に〜」なんてマスコミのくだりひとつで「政府がだらしないから!」なんて安直な仮想敵を構築する短絡思考には陥らない。つまり上記で紹介した投稿を「啓蒙」として解釈するならそれが狙うべき読者層は「マスコミのキャッチコピーに騙されるような情報マリオネットと化した無根拠ブロガー」になるわけだ。だがそんな連中に上記で紹介した投稿が読み解けるだろうか。結構な確率で無理だと思う。途中で理解しようとする努力を止めるだろう。それくらい無駄に「特定の事件に言及した知識網羅度」が高く、理解しにくい。

ブログで実現できる自己表明に陶酔して本質を見逃している連中を嘆くのは大いに結構なんだが、賤しくもジャーナリズムに公益性を求める立場にいることを表明するのならこれは難易度が高いと言わざるを得ないだろう(たとえ「自分で読み解く」訓練の場と解釈しても、だ)。どちらかっつーと弱者を嘲笑ってるようにしか見えない悪趣味にさえ捉えられる。

ジャーナリズムが個人を出汁にしてどうするよ。これが結論な。

P.S
まぁ私も悪趣味だけどさ。

さめためでものをみる

自民党がブロガーを相手にしている理由は単なるプロパガンダだ。庶民の声の具現化であるブログ、その著者(の一部)を集め、対談することで「私たちは庶民の声を真剣に聞いています」みたいなモーションを見せる。これによって「自民党はブログの声も取り入れているらしい」みたいな評判を立たせて、その中身を見ない軽薄な支持層を掬おうという魂胆だ。

と言える証拠は勿論ない。あとはみんな自分で考えようね。

常識の変遷

2ヶ月ぶり。

ブログ『デジモノに埋もれる日々』にて、"歯車は勝手には回らない - 回らないものが回り始めるとき"と題されたエントリがある。
http://c-kom.homeip.net/review/blog/archives/2005/07/post_204.html
私が要約するより現物を読んでくれ。よくある説教文句だが、一応的は射ているし根拠もある。少なくとも斜陽業界を笑い飛ばすだけの勢いはある。

以下、本題。くどいほど不毛な論議がされるネットワークにおけるジャーナリズムに関してだ。

この件に関しては、私自身の立場は斜陽派だ。つまり「ネットを機軸に世の影を叫ぶ」姿はそのネタがアイデンティティになる連中以外には「は?」って顔をされる程度の意味しかないと思っている。例えそれがどれだけ的を射た意見で、庶民レベルで無視できない事実をはらんでいたとしても、だ。

例を挙げれば障害者自立支援法を叩く連中は単に権力嫌いか、そうでなければ自分たちの生活と社会的立場獲得に妄信的な「権利者」だ(苦笑)。共謀罪ネタその他も次元としては変わらない。特に共謀罪に関しては想像の余地がとても広いので、ある意味非現実的な被害妄想がネットで囁かれている部分もある。皮肉なのはその手のコンテンツ制作者が煽り以上にマジでそれを考えている点だが、信仰とはそういうモノなのでそっとしておいてあげよう。それがジャーナリズムの側面でもあるわけだし。

そういう害悪となる可能性として既存マスコミとネットのポテンシャルはほぼ同義だ。むしろ企業としての抑止力がある分だけ歯止めの無い暴走は実はマスコミのが少なかったりする。マスコミは組織であるため「定石」が受け継がれ、ゆるやかな変化こそあれどクーデター的などんでん返しが発生しない。それは「社会が求める相応の変化」についていけないもどかしさを持つ一方で「ただ思いついただけの理想的な妄想世界」を現実的に否定する抑止力でもある。つまりアラヤ的な「世界秩序」なのだ。

ただしマスコミは意図的な「カネに従う方向性」を持っているために、庶民的立場からの公益性から離れているという悲しい前提を持っている。このため「ただ盲目的に真実を晒す」ポテンシャルに関してはネットのが強いことは現状分析の限り間違いない。だが問題は使い手がちゃんとその立場にいるかどうかの話で、ネットはこの前提にかまけてあらぬ扇動を起こせるポテンシャルも既に持っている。価格ミスという人的過失につけこんだ扇動がひきおこした事実がジャーナリズムに直結しないと言える根拠は実はあまりない。

結論としてテレビは既に衆愚の道具だが、ネットも次元は同じなのだ。むしろ制御者がいない分危険性は後者のほうが大きい。ネットの制御者は主にISPで、強制削除や停止は可能だが、それは違う物議を醸し出す。だがこんなちちくりあいをやっている間は、ネットはその程度のモノ扱いだ。世で重要なのは「ISPが『公共性』の観点から強制的に表現の自由を奪うことに対する論議」であってその中身ではないというオチになるからだ。

さて、話がかなり長くなったが本題に戻ろう。結局ネットは力になり得るのか。

私は「マーケットにはなるが政治力には成り得ない」という結論を持っている。ネットは自由すぎて立場が乱立する。多種多様はこの多用な価値観が肯定される現代資本主義の構造の中で「市場」として機能することはできても「思想を力になるほどにまとめあげる舞台」にはならない。楽天ヤフオクなどのオンラインマーケットが成功した最大の精神的土台は「消費は各個人の自由である」という大前提があったからだ。だが民主主義は多数決であり、もしネットジャーナリズムを力にしたいならば一定数以上の確保を行う具体的手段を講じなければならない。それは皮肉な話だが「自己意見の誇示」と「他意見の効率的抹殺」に直結する。だがネットで後者を行うことはネットの意味を否定する。結果として立場が乱立しすぎて、実行力となる頭数が集まらない前提を持ってしまったのが今の「インターネット」なのだ。

ただし、それは直接的実行力の話だ。ネット発言が「常識」を変えるのは既に可能性ではなく「常識」で、これは結果として世代交代と共に「常識」が遷移することを意味する。つまり自ずと「ネットジャーナリズムがリアルな権力者を通じて反映される」可能性は徐々に拡大し、いつのまにか「どうだ、俺の言ったネットジャーナリズムの可能性は正しかっただろう!」とか勘違いして豪語する馬鹿が生まれる土台はすでに整っているというわけだ。

あとは期が熟するのを待てばいい。今ネットの可能性を語る人間は、単純に漠然とした未来を想像できただけのことだ。その時期まで予言し、その通りになればちょっとだけ別格だが。