常識の変遷

2ヶ月ぶり。

ブログ『デジモノに埋もれる日々』にて、"歯車は勝手には回らない - 回らないものが回り始めるとき"と題されたエントリがある。
http://c-kom.homeip.net/review/blog/archives/2005/07/post_204.html
私が要約するより現物を読んでくれ。よくある説教文句だが、一応的は射ているし根拠もある。少なくとも斜陽業界を笑い飛ばすだけの勢いはある。

以下、本題。くどいほど不毛な論議がされるネットワークにおけるジャーナリズムに関してだ。

この件に関しては、私自身の立場は斜陽派だ。つまり「ネットを機軸に世の影を叫ぶ」姿はそのネタがアイデンティティになる連中以外には「は?」って顔をされる程度の意味しかないと思っている。例えそれがどれだけ的を射た意見で、庶民レベルで無視できない事実をはらんでいたとしても、だ。

例を挙げれば障害者自立支援法を叩く連中は単に権力嫌いか、そうでなければ自分たちの生活と社会的立場獲得に妄信的な「権利者」だ(苦笑)。共謀罪ネタその他も次元としては変わらない。特に共謀罪に関しては想像の余地がとても広いので、ある意味非現実的な被害妄想がネットで囁かれている部分もある。皮肉なのはその手のコンテンツ制作者が煽り以上にマジでそれを考えている点だが、信仰とはそういうモノなのでそっとしておいてあげよう。それがジャーナリズムの側面でもあるわけだし。

そういう害悪となる可能性として既存マスコミとネットのポテンシャルはほぼ同義だ。むしろ企業としての抑止力がある分だけ歯止めの無い暴走は実はマスコミのが少なかったりする。マスコミは組織であるため「定石」が受け継がれ、ゆるやかな変化こそあれどクーデター的などんでん返しが発生しない。それは「社会が求める相応の変化」についていけないもどかしさを持つ一方で「ただ思いついただけの理想的な妄想世界」を現実的に否定する抑止力でもある。つまりアラヤ的な「世界秩序」なのだ。

ただしマスコミは意図的な「カネに従う方向性」を持っているために、庶民的立場からの公益性から離れているという悲しい前提を持っている。このため「ただ盲目的に真実を晒す」ポテンシャルに関してはネットのが強いことは現状分析の限り間違いない。だが問題は使い手がちゃんとその立場にいるかどうかの話で、ネットはこの前提にかまけてあらぬ扇動を起こせるポテンシャルも既に持っている。価格ミスという人的過失につけこんだ扇動がひきおこした事実がジャーナリズムに直結しないと言える根拠は実はあまりない。

結論としてテレビは既に衆愚の道具だが、ネットも次元は同じなのだ。むしろ制御者がいない分危険性は後者のほうが大きい。ネットの制御者は主にISPで、強制削除や停止は可能だが、それは違う物議を醸し出す。だがこんなちちくりあいをやっている間は、ネットはその程度のモノ扱いだ。世で重要なのは「ISPが『公共性』の観点から強制的に表現の自由を奪うことに対する論議」であってその中身ではないというオチになるからだ。

さて、話がかなり長くなったが本題に戻ろう。結局ネットは力になり得るのか。

私は「マーケットにはなるが政治力には成り得ない」という結論を持っている。ネットは自由すぎて立場が乱立する。多種多様はこの多用な価値観が肯定される現代資本主義の構造の中で「市場」として機能することはできても「思想を力になるほどにまとめあげる舞台」にはならない。楽天ヤフオクなどのオンラインマーケットが成功した最大の精神的土台は「消費は各個人の自由である」という大前提があったからだ。だが民主主義は多数決であり、もしネットジャーナリズムを力にしたいならば一定数以上の確保を行う具体的手段を講じなければならない。それは皮肉な話だが「自己意見の誇示」と「他意見の効率的抹殺」に直結する。だがネットで後者を行うことはネットの意味を否定する。結果として立場が乱立しすぎて、実行力となる頭数が集まらない前提を持ってしまったのが今の「インターネット」なのだ。

ただし、それは直接的実行力の話だ。ネット発言が「常識」を変えるのは既に可能性ではなく「常識」で、これは結果として世代交代と共に「常識」が遷移することを意味する。つまり自ずと「ネットジャーナリズムがリアルな権力者を通じて反映される」可能性は徐々に拡大し、いつのまにか「どうだ、俺の言ったネットジャーナリズムの可能性は正しかっただろう!」とか勘違いして豪語する馬鹿が生まれる土台はすでに整っているというわけだ。

あとは期が熟するのを待てばいい。今ネットの可能性を語る人間は、単純に漠然とした未来を想像できただけのことだ。その時期まで予言し、その通りになればちょっとだけ別格だが。