芸術としての音楽に対する無関心の考察

以下、小寺信良氏の「コデラノブログ3」4/3記載内容より引用。


日本の音楽シーンの未来を考えるならば、貧しい音質でDRMガチの着うたなんかに金を払うのは辞めるべきだ。この日本独特の産業構造が、確実に芸術を殺している。
読んでいてスっと喉に通らなかったので、考え付いた流れを素直に書いてみた。気になったのは「貧しい音質でDRMガチの着うたに金を払っている人々」が音楽をどう認識しているか、という点だ。

以下、思春期の段階で携帯が当たり前のように手元にある世代の価値基準を推定して書く。彼らにとって携帯は「持っていることが前提」であり、またその差別化によって所有者のセンスが問われるファッションアイテムである。携帯の機種はもちろんのこと、携帯によってできることの記号の組み合わせとそのセンスが日々の交流の旨味を決める一因となっている。つまり、たまたま傍にいる感じのよさそうな知人友人が格好いい携帯で流行の曲を聴いていて、それを周りの人間に聴かせながら「この曲いいよねー」というようなシチュエーションが生じると、それに乗り遅れまいと同じような携帯で同じ曲を買って聴くわけだ。ウォークマン世代向けに言うならば、ウォークマンを持っている誰かがいると(持っていない)自分もウォークマンを欲しがったあの感覚である。着うたの消費は、こういう流れの中にあるんじゃないの? と私は推定している(申し訳ないが統計をとったわけでも裏づけを見つけたわけでもないので、その点はご留意いただきたい)。

上記のような現象が何を言わんとしているかというと、音楽は既に「隣人との共感のための記号」であって「芸術」ではないということだ。つまり「同じ音楽を聴いている」ことが重要なのであって「その音楽がよい音響環境で視聴できる」ことなど眼中にないのである。これは思春期層の若者に限らず、基本的に着うたを買うことができる消費者層の潜在意識として存在する。「あるテレビ番組の話題が仲間内で興ったときに、その話題に入るためにその番組を後から追っかける」人と同じ行動原理である。そのとき、誰がテレビ番組の映像画質を話題に上げるだろうか。そんな奴はそもそもその話題に入れないだろう。そんな彼らにとって自分が携帯で購入する音楽がDRMガチかそうでないかとか音質がどうかなどということは本質ではないのである。仮に音質を問う場面になったとしても、それは携帯の機種であったりイヤホンのブランドや値段だったりするわけだ。だから音楽データ自体はとりあえず聴ければそれでよく、他に移せないなら他に移さず流行の終了と共に消しておしまいである。まさに「音楽の使い捨て」だ。

ここで一つの疑問が起こる。仮に上記の「音楽の使い捨て」が事実だとして、それが何で音楽という芸術の衰退に繋がるのか、という点だ。携帯でたいしたことない音質でDRMガチとはいえ、音楽自体はある程度売れており、その一部は(建前通りならば)権利者つまり音楽の製作陣に行き渡るはずである。なお、携帯を通じて聴く音楽の音質と音楽消費者層の「耳」に関する話はそもそも「いい音質とは何か」という論点についてズバっと答えを出せないことから割愛し、お金の流れに限って話す。

もともと音楽というものは聴き手が聴きたい媒体で聴きたいときに聴ける「アーカイブを許す」構造が作られていた。ラジオチェックでマイテープを作成していた時代からCDを借りてMDに録音していた時代まで、形とお金の流れは違えどこの構造は維持されていた。このため、ふとしたときに懐かしく思い出した音楽をそのとき聴くことができた。メディアを通じて音楽を消費する人々の欲求と消費の構造は、こうした「再起の容易性」に支えられてきた点を捨て置くことはできない。何故なら人々にとってそうした音楽を聴けるテープやMD、CDは所有欲を満たすものでもあったからだ。もちろん人によってはテープやMDをなくしてしまって聴けないこともあるだろうが、その場合の原因は少なからず自分にあるのだから納得いかない部分はないだろう。本当に聴きたかったら改めて借りるなり買うなりする。そういう感情の落としどころが、これまでの音楽の流通形態には許されてきた。

しかし、音楽をデータで流通させることを容認する代償にDRMを設けた時代から話が変わり始めた。音楽は使い捨て消費者層を前提として流通し、アーカイブを許さなくなった。仮にminiSD等で携帯の外に持ち出せても、携帯そのものが壊れたり機種変更したりすればそれまでだ。こうして音楽は「再起の機会」と「所有欲の満喫」を失い、本当に音楽を聴きたい人にとって不便と欲求不満が募るだけのものとなった。そしてそんな人々はいつしか、不便が伴う音楽の流通を見放し、コピー制限がない代わりに入手ルートが怪しくて権利者の正当な保護が図れないかもしれない音楽データを入手するようになるわけだ。

もちろんコンテンツの値段やコピーの可否に関らず、誰かが流した出所の怪しいデータをコレクションして喜ぶ連中はどうしても少なからず存在するものなのだが、コピーガードという発想は「それさえなければちゃんとお金を払ってそのコンテンツを買ったであろう人」までそちら側へ押し流してしまうのである。これは音楽の消費者層がゼロになることを意味しないが、音楽を支えるお金の流れを不健全にし、その産業基盤を崩していく流れであることは疑いない。付け加えるなら、今でこそCDはダビングOKだが一時期コピーコントロールを導入しようという流れがあったわけで、音楽を取り巻く「販売側」の活動は音楽にとって極めて危険な方向性を持っている。ちなみにこれは音楽に限った話ではなく、映像作品も似たような状況だ。

上記のような傾向は、芸術の維持向上を主眼とする文化論としてはゆゆしき問題だ。もちろん、文化と経済のバランスを懸念する人々にとっても大きな問題である。しかし、大半の消費者の日常に文化論は存在せず、たまたま飲み会の席でネタにあがっても一方的な権利者叩きか行政の不備に対する愚痴となって酒の肴になる程度である。そして、文化を後押しする形で波に乗った経済活動がいつしか文化そのものを飲み込んで押し流し、後には養分を吸い尽くされた荒地が残るという有様は資本第一主義の必然でもある。所謂フロンティア精神の悪い部分である「おいしいところだけ食べて後片付けはしない」やり方である。ただ、着うたの消費がこうした経済活動の悪い一面を後押しすることは間違いないので、そういう意味で上記の引用による注意喚起を結びの言葉とした小寺氏の執筆そのものに疑問はない。むしろ問題は「着うたの消費=音楽の衰退」の三段論法(というほど段を踏んでいないが)を認識できるのかどうかだろう。

要は「コンテンツ産業において文化と経済が両輪ならば、その両輪を互いに支え続けられる構造をちゃんと作ろう」という発想に基づいた仕組みづくりが出来ていないのが問題なのである。現状は、経済側が一方的に文化を切り売りしている。文化側が「このままでは吸い尽くされて枯れ果ててしまう」という危機感から対策を講じると、仮にそれがトレードオフとして真っ当であったとしても(使い捨てに慣れた消費者層は)「権利者のエゴだ」と切って捨てる。そして妥協点という名目で中間搾取層を中心に出来た料金制度は有耶無耶のままに中間搾取層を太らせるだけのいびつなシステムとなって残る。それじゃクリエイターはやる気なくしちゃうよ。

ただ、こうしたコンテンツ産業に対する意識を消費者層に持ってもらうのは思いのほか難しい。何故ならば人は基本的に「自分と関係のないこと」に興味のない生き物だ。そして「多くのクリエイターの存続と、将来のクリエイターを育てる環境の構築維持が危ぶまれている」ことは、今の彼らにとって関係のないことなのである。特に海の向こうのあの国に住まう商売上手な方々にとっては。

情報の向こう側に危機感を持つことはとても難しい。それでも戦い続けるMIAUや多くの有識者の方々に、敬礼。あ、私は関係者じゃないよ?