テレビ番組を楽しむためにテレビ局ができること

筆者がデジタル放送の視聴環境を整えてから1年半が経とうとしている。デジタル放送におけるHDTVは技術的見地で色々と問題を抱えているものの、導入した当時はその高密度映像に改めて感動したものだ。それまで6年間テレビのない生活を送っていた筆者だが、デジタル放送を見るのは楽しいものとなった。

さて、そんな視聴環境を得た筆者がまず見るようになったのはフィギュアスケートだ。高蜜精細な映像は見ているだけで楽しい。しかし、同時にとても邪魔に思ったものがある。解説だ。つまり、選手の実演中に技の名前を添えたり、演技を評するコメントを入れたりする解説者その他の一連の発言のことである。これは単純な好みの問題だが、私が見聞きしたいのはフィギュアスケートの実演に伴う映像と音楽、あとはせいぜい大会進行に伴う選手の紹介や会場で起こる拍手等であって、本来演技に伴わない解説者その他の一連の発言はノイズでしかない。しかし、現在のテレビ放送ではこの解説等の「要らない音声」だけを切る方法が存在しない。

とはいえ、解説を抜きにしろというワガママが通じるとは思っていないし、テレビ放送に対して解説抜き映像と解説有り映像を分けて配信しろといって通じるとも思っていない。技術的な問題やその必要性もさることながら、何より彼らのプライドが許さないだろう。だから、DVD(放送がHDTVだからBlu-rayか)のように音声切替機能を備えられるパッケージでその有無を切り替えられるようにしてもらえれば、などと考えるわけだ。その場合、そのパッケージには当然しかるべき価格がついて世の中に出回ることになる。あとは価格と見込み売り上げ数と利益率のバランスの問題だが、私は(価格がよほど法外でない限り)買うだろう。

ではそのようなフィギュアスケートの「映像作品」は手に入るかというと、その術が非常に少ない。特に日本人選手に関しては、個人輸入を手段に含めて皆無といってよい状況である。もっとも、フィギュアスケートに限らずスポーツの放送権及び録画権というものはそれを取り仕切る団体とテレビ局との間の契約による制限が大きいこと、そして一過性のイベントである一大会がその後に映像作品として商品になるなど考えられないといった部分は考慮しなくてはならない。だが、契約云々以前に、基本的に放送は再販を前提とした流れにないのが現実だ。

せっかく得られた映像をその場限りの放送で終わりにしてしまうのは非常にもったいないことであり、あらゆる放送において「再販の可能性」はあるという意見は私に限ったものではないだろう。付け加えるならば、所謂インターネットによる映像配信はこうした再販の可能性において非常にマッチする配信方法だ。もちろんHDTV映像の場合は帯域問題があるし、フォーマットに関らず配信コストと採算度の問題は常につきまとうが。

しかし、それ以前の問題がある。というのも、テレビ局は常に新しい放送を見てもらわないと視聴率を維持できず、安定した広告収入を確保できないという事情があるため、今放送されている内容を差し置いて視聴される全てのメディアは彼らの収入にとって敵となるといった構造になっている。こうしたテレビ局の構造は多くの識者によって言及されているが、パッケージ販売にしろインターネット配信にしろテレビ局が過去の放送の切り売りに及び腰な最大の理由は権利関係云々よりここにあると言ってよい。人々の時間は限られており、その視聴時間をレンタルビデオやインターネットにまわされることは、テレビ局の存亡を揺るがす事態なのだ。

その一方で、時代は既に変わっている。世代交代と共に「ヒマな時はテレビを見る」スタイルは着実に縮小していることは疑いない。猫も杓子もテレビから得た情報を共通の話題とする時代は遠い昔の遺物だ。とはいえ、テレビ局の収入源であるスポンサーが望む広大な影響力をテレビ以外で得られるかというと、今のところ代替がない。インターネット広告は原則として大規模な影響を起こすには向かないニッチ向けの広告媒体だ、ということは何となく理解できるだろう。つまり、テレビ局としてその流れをやめることは根本的に採算の基準を立て直さなければならないことと同義であり、それが故に彼らは動かないし、動けないとも言える。

経済活動においては誰もが世界を牛耳りたがっている。テレビ放送による広告はそれを実現化するために非常に有用なツールであることは間違いなく、衰えたとはいえ現在でもその効果を十二分に発揮している。だがその構造が故に失われている多くのものを、少しずつでも何とかする方向性はそろそろ見出せないものか。

日本でこの先鞭をつけられるのはNHKだと私は思っている。プロジェクトXのような例もあるわけだし。せっかくスポンサー企業に依らず成り立ってるのだから、自分達が持つ放送の資産価値を今一度見つめなおす取り組みをしても悪くないのではないだろうか。お国の掲げるコンテンツ立国とやらは、そういう部分から芽生えてくると思うのだ。