発展に追い詰められるということ

世の発展に対し、単純な力押しによる邁進は市場に対しだんだん通じなくなりつつある。

x86系CPUを引き合いに出すとわかりやすいのだが、これはトランジスタの発展と共にとにかく集積度と処理系列を「力押し」で増やしてきた。だがトランジスタのスケーリング発展限界がこれに事実上の終止符を打っている。

世の中が未成熟な間は、その未成熟な部分に対して「力押し」――つまり投資と意思が続く限り発展に向かって妄信的にスケールアップを試みればよかった。あとはその時点では包みきれない部分を切り捨て、包み込めた部分を「新たな技術」としてクローズアップすればよかった。しかし、必要十分な処理能力を満たしてしまった現代のデバイスはこれに待ったをかけた。「力押し」では投資に見合った明確な差別点、セールスポイントを生み出せなくなった。

そこで市場がとった道はもうひとつの力押し、つまり「価格競争」だった。価格競争の基本は原価の削減、細かくすると概ね以下の通りだ。セオリーだと上から切り下げられる。

  • 材料費の削減
  • 人件費の削減
  • 流通費の削減
  • 広告費の削減
断っておくが価格競争というのは、必ずしも劣悪品ばかりが並ぶ不毛な活動ではない。初期ロットでは削りきれなかった不要な部品点数や工程の見直し、ひいては流通のスマート化を模索できるよい機会である。ただしそれは力押しの範囲を見誤らなかった場合の話で、大半は主に人件費の部分で過負荷をかける。これが結果として検査の劣悪化や人材の磨耗――ひいては技術流出や技術低下に結びつく(とはいえ十分なコストを掛けたからといってそれがゼロになるわけではないという点も見逃せないが)。

我々の目に映る市場で、単純な「力押し」が通じる部分はどんどん少なくなっている。それと同時に「力押しではない創意工夫」――言うなれば「組み合わせるアイデア」が必要とされている。つまりそれは、

だったりするわけだ。パクリと紙一重のこの世界だが、マニアにしか分からない過去からの系譜などにとらわれず大衆を引き付けられるミックスジュースこそが次の金鶴になる。

もちろんこれは今に始まった話ではない。だが、力押しが通じなくなったからこそミックスジュースが注目されるようになった。ただそれだけのことだ。

昔は努力の天才――つまり「力押し」であるだけで相対的に優れることができた。だが市場は既に「おいしいミックスジュースを作れない馬鹿は死ね」と我々に告げている。人は発展することによって自ずと自分たちが選ばれし者になる敷居を上げているのだ。

なんてことを考えると、『東京BABYLON』で語られた台詞が妙に信憑性を帯びてくる。東京は日本で最も「滅びに向かってひた走る地」であると。つまり発展するということは「単純な力押し」による盲目的な努力を賽の河原で積みあがった石の如く脆いものにするのだと。それはゆるやかに、しかし確実に大衆へ「馬鹿は死ね」という烙印と無力感を与える。ドレッドノートが就役前の薩摩型に旧型の烙印を押し、斉射によって砲手を必要としなくなったように。

結果人々は既に反映した権力と金にすがることを盲信し、それが出来なかった連中を見下すことを優越とする馬鹿がエリートと称される市場を作り上げた。いや既にそうなっているのかもしれない。人は金という統一的価値観でお互いを持ち上げ、あるいは切り捨てられる方向へどんどんと流れている。無論もともとそういう奴らはいた。だがそうじゃなくても良かった人たちまでそうなった。そうならざるを得なかった。それが市場評価だから。

これを打破するにはフロンティアでも開拓しなければならないんじゃないか。人は今一度、真っ白なキャンパスに一から何かを描くような機会がないと行き詰まってしまう気がしてならない。戦争を起こさずにその舞台を作るには、もう地球だけでは足りないように思える。そう考えると、月や火星を目指すのはあながち間違っていない気がするから不思議だ。

次の世代が夢見るのは、持っているお金の量で市場価値を測る世界か。それともフロンティアか。私だったら後者を望む。だって人には夢が必要だと思うから。