○○は必要かという論は必要か

トートロジー遊び。

閑話休題。時々、「○○は必要か」という切り口で話題を展開するネタを目に、あるいは耳にすることがある。こういうのを俗に「要不要論」という。これは基本的に「論理的に○○が必要かどうか」ということを語るものだ。もっとも要不要論は論述の過程で視点や論点に偏りが発生することがままあり、その度合いは主体者に依存する部分が大きい。そのため、要不要論は参考程度にはなれど統一指標とはならないのが一般見解だ。

なぜ偏りが発生するのか。その疑問に対する回答として「人間だから」という意見を聞く。人間だから偏ってしまうというわけだ。問題は、人間であるが故に抱える不完全性が結果として偏りを生じさせるのか、人間であるが故に持つ趣味思考取捨選択その他の感情や欲求が偏りを必要としているのかどちらかということだ。個人的には、後者が強いのではないかと予想される。少なくとも、世に展開されている要不要論は。

つまり「○○は必要だ」と語る人間は、自分にとって○○が必要だからそれを論理的に補強しようとし、「○○は不要だ」と語る人間は、自分にとって○○が不要、もっと言えば邪魔だからそれを論理的に否定しようとする。それだけのことなのだ。

では仮に社会的見地から偏りがない論理に基づいて要不要論が展開された場合、それは統一見解として大衆に受け容れられるであろうか?

実例がないので断定はできないが、ほぼ間違いなく否である。何故なら個人にとっての要不要論は妥当性ではなく、信仰だからだ。

つまり本人が必要と「信じる」からそれは必要なのであって、社会が不要と見なすかどうかは関係ない。本人にとって不要、むしろ邪魔になるからこそ不要なのであって、社会が必要としているかどうかは関係ない。そういうことなのだ。

要不要論は永遠の平行線である。人が個である限り。

感情論の調停

以前、こんなコメントをもらったことがあった。


(前略)何事も理屈で割り切れると思わないほうが賢明かと。

これは理屈で対抗できない人間が自己正当化するには非常に便利な言説だよな、と思う。そしてきっとこれを耳にするたび「うんうん」と何となく頷いて、いざというときに自分を守るために使いまわす連中は後を断たないだろうとも予想できる。

感情論でモノを語る人間と話し合いをすること自体ナンセンスなわけだが、肉親とかが相手の場合は家族法その他の面から完全に無視するわけにはいかない状況がある。特に裁判においては無視をした場合「(反論を放棄することで)相手の主張を全面的に認める」ことと同義となってしまうため、嫌でも引っ張り出されるわけだ。

もちろん法廷では理屈で対抗することになる(実際それで勝てる)わけだが、それでも彼らは退かない。自分たちの主張を認めないすべての存在を「分かってない」とわめきつつ、ストーカーまがいの執着を続ける。

いつから家族の愛情は無条件肯定される状況が大勢になったのだろう。まして、子に愛情を(カタチとして)示してこなかった存在がプロパガンダとして利用しても成り立つほどに。

私は世に在る家族そのものは敵と見なさない。だが「家族は愛情で結ばれるべきもの」という固定概念は敵と見なす。だってそんなものは、私にはなかったのだから。そのための、理屈だ。

ウソツキであればあるほど認められやすい世界を少しずつでも否定したい。その後に殺伐としたモノしか残らなくても、それが現実ならば認めたほうが話が早い。

ウソは自分以外のためにつかないと、救いがない。最近とみに、そう思うのだ。

偉大な福祉国家妄想

コメントレベルで終わらせようと思っていたのだが、どーも煮え切らない議論が始まりそうだったので自分の場所でぶちまける。

焦点はR30氏が4/11にとりあげた新聞ネタからはじまったフリーター政策議論に対して発生したこのコメントだ。


投稿者: GenOishi (April 13, 2005 01:07 AM)
(前略)厚生労働省がフリーターという就業形態を問題視しているのは、OJTの機会が与えられないために職業能力を向上させるチャンスが失われるから、です。人材育成という視点からのアプローチは、小杉礼子著『フリーターという生き方』(ISBN:4326652764)を政策に反映させたものだと私は理解しています。こうした施策の是非については議論の余地が多分にありますが、少なくとも厚労省の立場を理解したうえで批判なさるのが適切かと存じます。

この話は単にR30氏が本文において言葉足らずな部分があったことをフォローするものだ。だが、視点を変えて見てみよう。もし厚生労働省が本当にこのようなことを考えているのだとしたら、問題はフリーターを減らすことではなく、フリーターと呼ばれる就業形態が「使い捨て人材」として消費されている実態を改善することなんじゃないかということだ。

フリーター等の「契約社員」「アルバイト」等の「事業者の都合による雇用契約解除が比較的容易とされている就業形態」に関してはこの手の「技術が育たない」問題が横たわっているのは今更の話だ。で、その対策が「フリーターを減らそう」ですかそうですか。何故「フリーターでも世の中で稼ぐ力となる技術を身に着けられるよう対応する」という発想にいかないのでしょうか。

習熟のために長期間の修練を要する技術は確かにある。だが基本的に年単位で修行を積まなければならないような「職人芸」の類に挑むフリーターというのは原則として存在しない。そもそも舞台がそんな生半可を受け容れてはくれないからだ。だから「技術の継承と維持」という意味でフリーター論はお門違いだ。

一方で、世の中の正社員は世に言われるほど「技術」とか「(後に生かせる)経験」なんてものは持っていない。それは何よりお役所に勤める皆様方が一番自覚なさっていることじゃないか(苦笑)。だから技術立国として理系離れを憂うならばともかく、フリーターを持ち出して「技術うんたら」という時点で何かが違う。そもそも工場における労働で必要な技術なんて某自動車会社のコスト削減とか価格競争とかであっさり「おまえら要らない」と言われ、工場が潰れたあげく上澄みだけ資本に買収されてしまう程度のシロモノだ。それでもそんな技術を必死でフリーターに仕込みたいですかそうですか。

つまり何が言いたいかというと、GenOishi氏が持ち出したフォローネタは、フリーター議論をネタとして提起したR30氏の記述不足フォローとしてはある程度適切だったことは間違いないが、「20万人削減」とか厚生労働省自体が勘違いをしている事実は別の視点から見ても変わらないよ、という補強をしてしまっているということだ。

もともとフリーターと呼ばれる就業形態が流布したのは、バブル期に流動労働力を増やすことで求人広告料や紹介料という売上と利益を伸ばすために行われたリクルートの営業戦略に他ならない。そしてフリーターが社会問題として認識されるようになったのは、単にそれが政治批判として非常に便利な口実だったからだ。野党が与党を批判するとき「失業者は増え続けている」と言うだけで「今の政治はダメだ」と言えてしまうのだから、本当に便利だ。で、失業者ネタに飽きられている昨今だから次はフリーター、次はニート。その次は何ですか? そろそろパイが尽きそうですが。フリーターやニートをさらに細分化しますか? 一般人がついてこれないほどに。

仮にフリーター問題の原点をあえて追求したとしても、その正体は「売上と利益優先で無知な他者を食い物とする」ことを正当化する資本主義そのものなわけだ。それはつまり「無知が無知であることさえ気付かないまま食い尽くされる」状況自体を改善しないことにはどーしよーもないんじゃないか。これを改善するには「財の再配分」という発想を資本家たちが持たないことには始まらないわけで。ええ、現実として始まることは永遠にないでしょう。

あ、先に言っておきますけれど私は反資本主義ではありません。単に資本主義が持つ弊害を示唆し、資本主義社会の上に暮らすならそれくらい知っておけというだけです。ただし反共産主義(理想としての社会主義そのものではなく、実態としての共産主義国家)ではあります。私も殺されちゃうからね!

閑話休題。極端な話になるが、正社員とフリーターの違いは「正社員になれるタイミングで権力者の足の裏を舐めることができたかどうか」だと思う。度合いや動機の差はあれ、反社会的態度を表面化させたか隠していたかの違いだ。そんなことで一生が決まってしまう「社会に迎合するしかない」労働体制を健全と思い、維持し続けたいのだろうか。もしそれが本音なら、厚生労働省がまずはじめにやるべき施策は「美辞麗句をなくす」ことだ。世の中の実態を教え、稼いだカネ以外で実現できる夢や希望なんて無いんだという前提を植え付けて「労働」させる流れを作ることだ。そうすれば世の中は「そんな厳しい社会で労働なんて出来ない」と嘆く勘違いしたバカ負け組と「それでも生きるために素直に社会に従って労働します」という悲しき労働者に二分され、負け組には死んでもらえばいい世界が出来上がる。ただ、それだけのことではないだろうか。これに基づけば、厚生労働省の仮想敵はまず「マスコミ」になるはずなんだけどなー。何で「フリーター」なのかなー。やっぱり弱者を苛めるのは強者の基本?

やれやれ。福祉国家って、そんなに大切ですか。そうですか。

サロン分析に見る自省

今回は3/22に記述したブログ=サロン論に対するsantaro_y氏のコメントが元ネタ。うーん、サロンとしてのブログを否定しているような空気が漂っていたのか。自覚してなかった。結論が出ている=無意味だからブログはダメ、と解釈できんことはないのか?やはり記述による意思伝達は一方的に相手の解釈能力に依存するという意味で実に慎重な態度が必要とされるわけか。逆手に取れば話題作りに使えるけれど、誤解を招きたくない場合は大変だなぁと改めて認識。

さて、フォローを兼ねた派生論。サロンの無意味さと有効性に関して。

ブログ=サロン=井戸端会議に関しては、実はブログに限ったことではありません。あらゆるコミュニケーション、極論を言えば友人とか身内とか、顔を合わせて話すことの大半は井戸端会議なわけで、ブログとコメント、トラックバックはそれの派生に過ぎないということですね。

この世に政治・経済・権力その他の直接及び間接的影響をもたらす事象と行動に関する話題だけして生きている人間っているのかどうか知りませんが、少なくとも私を取り巻いている常識世界では大半が「無駄で無意味で(主体者にとって)楽しい会話」です。仮にその話題が政治的・経済的事象だったとしても、それ自体に干渉・対応した行動等をとる意図はほぼまったくなく、ただ対話をすること自体が自己存在確認となります。

そういう意味でサロン自体には直接的実行力はなく、その行為そのものに意味が無いという示唆は3/22の内容にも込めています。ただ、それが例えば一部の教育者の意識に止まり、次の世代に緩やかな反映を促すといった側面はあります。そういう意味での間接的な意味は皆無ではない、という意味でサロンは有効だという認識を私は持っております。ただここまで説明しなかったのは、単純に焦点がぼやけるからなんですね。気付いたからといってどうになるもんでもないし…。何よりそれを理由に「俺たちはサロンがあればいいんだ」的開き直りや正当化をされるとそれはそれでいろいろと問題があるわけで。

ただ、次に向かうには現状を可能な限り正しく認知しないと舵が取れないだろうという意識のもとに。前回のサロンネタは自己分析の派生的産物であり、自省なのです。

打てば響く:情報強度議論がもたらす思想連鎖

R30氏が「情報強度」という標語の元に、情報の確からしさを担保するということ→これからの情報選択の余地その他もろもろの在り方を提起している。個人的に興味深い範囲なので、思いつくことを書いてみよう。

まず、「情報強度」に関してだ。ここで定義される「情報強度」とは「情報の確からしさ」、つまり「その情報がれっきとした事実である」ことを保証する度合いとする。完全に的を射ていないかもしれないが、遠からずではあるだろう。

問題は、「確からしさ」の幅だ。ブロードキャストと単一の解を身に纏い、並列処理と分割思考ができなくなった人間は「情報の確からしさ」を以下のように受け取る傾向がある。

  • その情報を鵜呑みにしていい度合い

なんでこんな煽りっぽい書き方をするかというと、例えば「ニッポン放送新株予約権は違法じゃないか?」という問いかけをブログでしたとして「違法じゃありません。いいかげんなことを書かないで下さい」みたいな「単純に違法かどうか」というすごくつまらない点を突っついてくる「思考の発展がない」お馬鹿さんが世の中には結構いらっしゃる――というかむしろ絶対数だけだったら発展した論理展開ができる人間のが少ないと予想される――からだ。

こんな人間が目立ってしまうのはマスコミのせい、とか書く人間は結構いる。確かに責任の一端…というか結構な範囲でマスコミは悪影響を与えているが、問題の核心は「考える訓練」をしてない人間がいるということだ。

ではなぜ考えないのか、というと教育問題まで発展してくるのでとりあえず割愛する。結論だけ書くと「間に受けていい情報よこせコラ!」というのが無意識的な大衆の発想で、間に受けると「間違っている」ように見える情報にいちいちケチをつけるわけだ。それは間違っている、害だ、やめろコールという形で。

さて、本題に戻ろう。上記のニッポン放送に関しては「株式市場原理である『資本の等価性』を無視した既存株主優遇措置としての新株予約権は、司法としても違法と判断してしかるべき事例となるのではないか」ということを読者に問うていると受け取っていいわけだ。実際、議論の焦点はその部分である。だから「新株予約権(ストックオプション)行為そのものは何ら違法ではない」点はむしろ柔軟な対応を欠いた法律の不備とされる部分――健全な市場を確保するために臨機応変な対応を考えるべき――ということだ。無論、実行力として意味のある判断をするのは司法なわけだが。

かなり前置きが長くなったが、情報強度というものを「疑わなくてもいい」という観点で捕らえていると、そこには発展の余地が無いからつまんないよってことなんだと思う。ブログ著者たちにとって一次情報は前提であって、そこから次の段階――あるいは「あるべき姿」、あるいは「現実への対抗策」、あるいは「こうだったらいいのになー」というヨタ話――を考えることに意味があるからだ。

つまり、ブログ著者たちにとっての情報強度というのは以下のようになると思われる。

  • 議論する上で、判断の根拠として用いる際に的外れではない度合い

前者と後者で何が違うのかと言われれば「その情報が正しいかどうかを判断するのは自己であって、他者がそれを保証してくれるものではない」という認識があるかどうかだ。前者は「情報を発信する主体がそれを担保すべき」という依存があり、後者には「そんなのは自己責任だ」という自負がある。

そういう意味で、情報強度を議論していくと人間の精神強度を分析することになりそうだと思った今日この頃。そもそもこの文章を噛み砕ける人間はどれだけいる?


世の中の人はまだ「1次情報が最も強度があり、それに近い人が発言する解釈情報に次に強度がある」と考えていると思うが、実はそうではない。1次情報を持たない、強度の低いブログでも、個々のブログが提示する「思考の枠組み」のネットワーク的総体が、1次情報に近い人の情報強度を追い抜く可能性がある。つまり「柔よく剛を制す」のがネット時代の情報強度ですよと、こういうことが言いたかったんである。

これはつまり「最初は明確な根拠や担保がない提案でも、いろいろな人がそれをきっかけに意見を交わすうちに問題の根源(に近い場所)に辿り着くことがある」ということだ。見かけ上の正しさなんてものに固執した世界より、あやふやな霧の中をひとつひとつ声と手で確かめていく感触。それをブログ著者は、欲しているのではないかと思う。

この領域に辿り着けない連中は、まず自分の前提を整えて来い。努力で上れない場所ではない。そこにいないことを理由に、この世界を壊す権利はお前たちにはない。2chがとっくの昔に下した、インターネットコミュニケーションにおける「空気嫁」の原則を、もう少しだけ紳士的にやっているのがブログなのだろう。

理想的なサロンを描こうとするブロガー症候群

ごきげんよう。芸能界に○○○人が増えているかのようにじわりじわりとアクセスカウンタが回っております。有り難いことです、本当に。

かなり間があいたのですが、ぶっちゃけネタがないのです。個人的にブログ=サロンへの渇望という結論はとっくに出てしまっているため、発展性に関しては(ある意味で)見切ったと言って過言ではありません。公益性は必ずしもゼロではないため、まだその余地に関してはあるのですが…。

というわけで今回は無理やり「ブログ=サロン」という発想を説明してみます。

そもそもサロンが何なのかというイメージが湧かない方は、井戸端会議を思い浮かべてください。主婦が道端でよく分からないような分かるような話をしているアレです。サロンはアレをお茶の間でやっているようなもので、取り扱うネタが時には政治だったりカルト的だったりサイコだったりするだけで、レベルとしては変わりません。

さて、本題に戻りましょう。

基本的にブロガーがやることは持論の展開です。良くも悪くも「俺の歌を聴け」です。その結果、場合によってはコメントやトラックバックが得られます。それらはノイズ混じりながら、共感や別の見方を得るきっかけになります。その中から「自分と同じ(或いは近しい)思考レベルを持っている」相手を見出し、その人の意見と交流することで造詣を深めます。

結果としてコメントやトラックバックは、(設計思想や理想はどうであれ)ブログ著者にとって意見を交わす価値のある他者を抽出するきっかけとなります。これが「ブログ=サロン」と定義される根幹にあります。つまりブログは思想的共感への欲求と知的向上という尊厳という擬似感覚を得るための代償行為ということです。

もっとも、意にそぐわない意見や抗議、その他の「攻撃」と分類されるリアクションへの対処の仕方次第では目的が「ブログをブログとしてしっかり運営する術と根性を身に付ける」ことも付随してきますので、別の意味で訓練にはなるのですが…。

無論これは私の定義です。それに、楽しければそれだけでも意味があると思いますし。自覚して楽しむのは悪趣味ですが、それさえも自覚していますから。

答えは既に出ています。あとはそれでも読みきれぬ未来を、如何とするか次第というやつですね。

intel独禁法違反勧告を利益構造の変遷から考える

題名の通りの勧告が出ている。決着予想はどうでもいいから、影響範囲をシミュレートしてみよう。

これまで


intel:販促費とひきかえに認知度と売上を得る。ウマー。
AMD他:intelの販促費戦略の結果、シェア低下。マズー。
PC販売企業:intelに擦り寄ることで以下のメリット。ウマー。
・販促費がもらえる
・採用検討のための期間および費用が省ける
特筆すべきは、PC販売企業にとってintelと癒着するデメリットがなかったことだ。というのも、性能に基づくCPU選択というのは意外にナンセンスだからだ。CPU論議には、以下の背理がある。

・採用するCPUによって世界のPC需要が変動するわけではない
・採用するCPUによって発生する変化で重要なのは価格であって、ベンチマークでしか分からない相対性能ではない
・採用ブランドの多様化はセールス、サポートの煩雑化を招くため人件費増加に直結する
結局のところ、intelが販促費としてお金をくれるならば結果的にPC販売企業はPCの単価を落とせるわけだ。これはつまり、消費者が安くPCを買えることも意味している。

だから実はintelの施策は消費者にも(短期的には)利益だった。これが長期的に実施され、競合他社が事業撤退にまで追い込まれてはじめて「独占による値段高騰」が発生し得ることになり、結果的な不利益として跳ね返る。

では、そうなるだろうか。少なくともTransmetaは撤退してしまったから、現実味がないわけではない。もっとも、Transmetaは広報が下手だったのでintelがいなくてもいずれ沈んだろうと思われるのだが、それは別の議論となるので割愛。

問題はAMDだ。AMDは確かに2004年第3四半期の売上を下方修正している。が、これは主にフラッシュメモリ市場そのものの減衰が原因で、同様の理由でintelも下方修正している。つまり直接的な原因がintelにあるわけではない。

むしろintelは2003年度のフラッシュメモリ市場で値段をつり上げて大失敗した。AMDの事業予測はそんなintelの愚行が故に発生した好景気を前提に作られていた(というか株式会社としてそうせざるを得なかった)わけだから、味方次第では無理もないのだ。むしろ回復できてないintelの方が心配だ。
私はユーザとしてintel派だから余計そう思うのかもしれないが、利用者にとってプラットフォームが複数あるというのは実は言うほど喜ばしいものではない。自作派その他の機械好きにとっては単一の選択肢はとても寂しいことは予想できるが、それだけのためにPCの価格が結果的につり上がっては話にならない。

無論、公取委AMDの経営状況を危ぶんで今回の手を打ったのだとしたらそれは間違いなくお手柄だ。AMDがつぶれてしまってはintelは販促費も払わず、単価も下げずでふざけんな状態になるからだ。

yahoo BBはサービスとして糞と名高いが、日本のブロードバンド導入・維持費をそれまでより大幅に下げてくれたという実績がある。私はこちらを評価しているので、孫正義自体は別段嫌いではなかったりする。ソフトバンクおよびグループ企業そのものは決して好みではないが。特に癌砲と出版関連の態度。

閑話休題

つまるところ、今後AMDintelを牽制する上で今回の勧告が必要だったのならばそれは「よくやった」だ。だが、この勧告がPC販売企業がいっせいに販売価格を上げる公明正大な口実になってしまうのではないかという危惧もある。つまりintelが販促費を出してこそ成り立っていた市場の常識が崩れ、PC不況が一段と深まるのではないかということだ。

もともと家庭需要自体はすでに飽和しているといっても過言ではない。後は企業の置換え投資がメインであるPC市場にひとつの光をもたらすネタとなるかどうか。私は総合的に見てマイナスのような気がしてならない。だってintelが公明正大にお金くれなくなるんでしょ? だめじゃん。

最後に。私はPCベンダーに関わってはいません。信じるかどうかはお任せします。読者層に知人いるし…。