感情論の調停

以前、こんなコメントをもらったことがあった。


(前略)何事も理屈で割り切れると思わないほうが賢明かと。

これは理屈で対抗できない人間が自己正当化するには非常に便利な言説だよな、と思う。そしてきっとこれを耳にするたび「うんうん」と何となく頷いて、いざというときに自分を守るために使いまわす連中は後を断たないだろうとも予想できる。

感情論でモノを語る人間と話し合いをすること自体ナンセンスなわけだが、肉親とかが相手の場合は家族法その他の面から完全に無視するわけにはいかない状況がある。特に裁判においては無視をした場合「(反論を放棄することで)相手の主張を全面的に認める」ことと同義となってしまうため、嫌でも引っ張り出されるわけだ。

もちろん法廷では理屈で対抗することになる(実際それで勝てる)わけだが、それでも彼らは退かない。自分たちの主張を認めないすべての存在を「分かってない」とわめきつつ、ストーカーまがいの執着を続ける。

いつから家族の愛情は無条件肯定される状況が大勢になったのだろう。まして、子に愛情を(カタチとして)示してこなかった存在がプロパガンダとして利用しても成り立つほどに。

私は世に在る家族そのものは敵と見なさない。だが「家族は愛情で結ばれるべきもの」という固定概念は敵と見なす。だってそんなものは、私にはなかったのだから。そのための、理屈だ。

ウソツキであればあるほど認められやすい世界を少しずつでも否定したい。その後に殺伐としたモノしか残らなくても、それが現実ならば認めたほうが話が早い。

ウソは自分以外のためにつかないと、救いがない。最近とみに、そう思うのだ。