人型ロボットがもたらす愚か者認定

別に労働力としての人間がロボットに侵略されるとかそういう意味じゃない。ロボットの所持/非所持および活用方法の差異によって発生しうる、コミュニティにおける各個人の精神的立ち位置の問題である。

家事は主に以下の要素から成る。

  • 炊事
  • 洗濯
  • 掃除
  • 育児
  • 送迎
  • その他雑事(新聞や手紙をとってくる、飲み物や食べ物を運ぶ、電気を消す、風呂を沸かすetc)
  • 情事(苦笑)

まぁ言い出せばきりがないわけだが、おそらくこうした種々の要求に対応できるロボットはいずれ開発されてしまう。あとはそれが普及と大衆化に伴って低価格化・高性能化・最適化(老人介護向け・看護向け・単身赴任向け)とかになっていくだけだ。多分単身赴任向けにはげふんがふん

閑話休題。ロボットが家庭内サービスを可能になるとサービスの水準が上がる。何故かって標準化されてしまうからだ。おそらく上記のようなサービスはロボットによって「一定以上の水準」が大衆の中で常識化する。そうなると困るのは「ロボットを導入できない貧困層」における代理としての家族員だ。

貧乏暇無でも幸せなんて理想像が実現できるならいいんだが、大半の貧乏暇無はそれが故に精神的余裕がない。だから他人に任せた仕事の手際が悪かったりすると苛立つことになったりする。その一方でテレビの向こうではロボットによって高水準に保たれた家庭像が映っていたりする訳だ。はいこの時点で家庭内において「任せられた役割」を満足にこなせない落ちこぼれちゃんは「ロボット以下」決定である。

まして義務教育における集団生活では、家庭水準の差がモロに出る。たとえロボットが家事をまかなえるようになっても数年は家事を行い続ける人間が大半だろうし、ロボットという無機に抵抗を覚えてむしろしっかりと「人間の仕事」としての家事に熱を入れるような連中も少なからず発生するだろう。

さてそうなった場合「ロボットが家事を担う家庭」と「親世代が家事を担う家庭」では歴然たる差が子に発生する。何故なら子というものは(ほめてもらいたいからとか大変そうだからという理由で)「親を手伝おう」という発想はする可能性がそれなりにあるが、「ロボットを手伝おう」なんて発想は相対的に起こりにくいだろうし、何より起こってもロボットは手伝われることに対応するよう出来ていないだろうからだ。これはまちがいなく付加機能であって、一般中流家庭に普及するロボットに備え付けられる要素ではないと予想する。たまたま家にいたのが介護向けコミュニケーションロボットならまだ望みはあるが、事務用じゃ無理だ。

そうなると、家事に対する子どもの感覚は劇的に二分される。でもきっと人の目に格好良く映るのは「家事ができる」人間であることは変わらないだろう。まぁもともとロボットが代理するようになった家庭の家事事情はロボットがいなくてもpgrかもしれないわけだが、それでもより顕著になるような気はする。つまり「家事が出来ない」子どもたちは「ロボットにもできるようなことさえできない子ども=ロボット以下」として格好の攻撃対象になるだろう。あるいはロボット任せの家庭が大勢を占めてきたら「(教育の現場において)最初から家事ができる」子どもたちは「ロボットに任せて当然なことができる人間=人間ロボット(造語)」とか呼んで冷やかすこともできるわけだ。

まぁいじめなんてのはネタが何であれ起こるので、ロボットがあろうがなかろうが少なからず発生するわけだが。問題はこれによって「ロボット害悪論」が発生することのほうで。またいらん社会学者どもとマスコミが飯の種にしそうでやな感じだ。

むしろそれ以前に「専業主婦」が滅びるとかそういう論が出てくるだろうと言われそうなんだが、私は次世代にしか注目してないので主婦の地位はあまり重要ではない。あるとしたらその姿を見て育つ子どもへの精神的影響度の方が心配だ。

要は、ロボットの家庭浸透はそれの所持/非所持およびその活用法によって、家庭水準の階級をより顕著に浮き彫りにするだろうということである。無論「ウチはロボットなんぞいらん。人のぬくもりこそ第一だ」とかいくらでも言いようはあるわけだが、世がどう見なすかは自認とは関係ない。「ロボットのひとつも買えないの?」とか煽ることはいくらだってできるのだ。

とかいうことをHRP-2の記事を読んでいて思った。
http://pc.watch.impress.co.jp/docs/2006/0131/kyokai42.htm

携帯電話がこれだけ開発の意図に反して普及した社会。ロボットの浸透にも言うほどの抵抗はないような気がするのだ。あくまで気がするだけ。