個人の責任、社会の責任、どっちも甘ったれ

たかがゲーム、されど中は人間。これがMMORPGのやばい点。

RPGが仮想世界だとか結局はゲームだとかその辺りの論争は放っておいて、MMORPGによって何ができるのかと言う点に注目してみよう。


・ルールの幅が現実に比べてはるかに狭い。そのため、そのルールさえ理解すれば「その世界における何らかの役割」を最低限のレベルで担うことができるようになる。しかもそのアーキタイプ(原型)があらかじめ設定されていて、基本的にそれに従えばほぼ事が解決するようになっている。つまり「自己形成に悩まない」。
・その世界内における金銭、および価値のあるものを比較的安易に他者に提供/貸与できる。これは実際の生活に被害がないためである。詐欺られたとか盗まれたとか、精神的に影響はあれど衣食住を奪うことはない。
・共通の目的(敵を倒す、クエストを達成する等)ために協力、および役割分担が比較的明確かつ明快に行え、またそれが共通認識の元に達成できる。特に役割分担に関しては、世界が与えたルール(職業等)によって自他共に「自分の役割/他人の役割」というものを理解した上で行える。
・実際の容姿、地位、貧富、その他「身にまとった自分自身」を、(言動他の立ち振る舞い以外)完全に隠蔽できる。特に容姿に関しては重要で、ゲーム内のキャラ造形によって違う自分自身を投影できる。

細かい点をあげればきりがないが、とりあえず上記4点に注目する。これらはすべて「現実逃避」を助長しうる材料なわけだが、その点は割愛。

で、何が言いたいかというと、これらの特筆すべき点は人を美化できるという点だ。もちろんゲーム内における相対的優位を確立するためにアイテムやレベルに血眼になったり、弱い他者を一方的に卑下、罵倒、あるいは実力行使(略奪、殺害等)する連中も少なくないが、「そうでない人間」もいる。問題はその「そうでない人間」、つまりどちらかというと優しい立ち振る舞いをしてしまう、あるいはしたいと思ってゲーム内に存在する連中だ。

世の中と言うやつは、消費生活を増大させるための広報―煽り文句として「個性が大事」とか、マス教育レベルでは真剣にそういう観点を以って接してくる馬鹿―があふれ、対抗策を持たないまま多くの情報に翻弄される個人は大概「自身の基盤を確立する」前に、漠然とした理想やイメージを持ったまま社会へ送り出される。その一方で、社会が個人に求めることは個性でもなんでもなくて「単に現在の権力者により多くの金銭をもたらすことができる具体的手段を構築し、実行すること」だ。これによってのみ個人は評価され、それが達成できない奴は人間失格の烙印を押される。アホすぎ。

一方、「同情するなら金をくれ!」と言われて、100円ならあげられても生活を維持するレベルで支援してできる人間はそうそういない。いたとしても、それは支援を必要とする人間の数に遠く及ばない。

そして、世の中の役割分担というのは必ずしも自分が望んだ立場で行われるわけではない。寝たきりの親類を世話している誰かは、それを望んでその家に生まれたわけではない。営業をさせられている人間が必ずしもそれを望んでいるわけではない。これは繰り返しになるが、経済市場における役割分担の大半は金銭が主体であって、それを担う本人が主体ではない。それが金銭第一主義である経済の真理であり、それ自体は間違っていない。単にそれを達成するために発せられる美辞麗句が実態とあまりにズレているに過ぎない。

なおかつ今ここにいる自分自身というのは、死ぬまで(あるいは死んでも)やめることのできない存在であって、努力で特徴の一部を「変える」ことはできるかもしれなくても、そのものを変更/置換/離脱することはできない。つまり世の中における自分という「記号」は(特別なつてがないかぎり)変わらない(もっとも、海外に行って実質上誰も知らない世界で人生を営むとかいう次元に達すれば擬似体験は不可能ではないが)。

RPGというのは、上記の内容を逸脱した「英雄像」を自身が実現する擬似体験をすることで快感を得るゲームだ。コンシューマゲームではこれが電脳世界で完結していたが、MMORPGは他プレイヤー、つまり人間の精神を相手にそれを行うことができる。もちろん作用する範囲はゲーム上の話に限るのだが、精神的にはそれで十分だったりする。しかも会話や相談、愚痴や慰めだけならゲーム外の話題、つまり現実世界にまで干渉して行えてしまう。結論として、MMORPGは現実に比べ、はるかに理想に近い「他者に関わる人間としての自分」を描ける、そしてそれを行ってくれる他者を感じられるのだ。

結局のところ、RPGに限らずゲームがもたらす擬似体験というやつは、世界が持っている理不尽を可能な限り理想に近づけたいという人々の心から発生しているのだと思う。

生きるのはつらく、世知辛い。それが常識であって、仮想世界が歪んでいると言えばそうだろう。だが、その一方でそんな現実を正しく認識させてくれない美辞麗句が現実世界にあふれる理由は何だろう。それを嘘と見抜く力を身につけさせるため、ではないはずだ。そんな逆説的な作用を求めているなら、すんでのところでドッキリショーとして終わらせてくれるはずだから。

だから、本当にゲームがもたらす社会問題を解決したいんだったら、教育の段階で嘘を教えないことだ。それはとても難しいことだけれど、少なくとも「人命は地球より重い」とか「弱い人々を助けるべき」とか「お金が全てじゃない、幸せはお金じゃ買えない」とか、そういった非常に誤解を招きやすい美辞麗句はなくせるはずだ。その言葉を信じたあげく現実のギャップにうちひしがれてしまった弱者の心には、強者の立場で説教しても何も響かない。

だから、せめて教えよう。「信じる者は馬鹿を見る」と。「人を見たら泥棒と思え」と。「カネが全て、その他のことはカネ(とカネを恒常的に得る手段)を手に入れてから」と。それが、ゲームに逃げるかもしれない次世代を未然に救う、教えるべき世界の原則だ。

死んだ聖人よりも、生きた悪人になれ。その上で否定できない姿を、生き様という背中を示せ。それができない誰かに、他者を否定する権利はあっても正当性はない。勿論、私も例外ではない。

ゲームを有害指定する議論の前に、現実を省みよう。いやマジで。ゲームを仮想敵扱いする分には構わないけど、それは間違いなく自己満足で終わるからさ。あんたたちは事態を打開したいのか、それとも単に有害な仮想敵をやっつけた振りして自己満足に浸りたいのか。多分後者だろうなぁ。そう言及したら顔を真っ赤にして怒りそうだけど。うん。

人間を狭さと御都合主義から解放するって大変だ。多分永遠に不可能だろう。これぞ啓蒙が抱えている矛盾、理解の前提さえ布教させられない無力。だからワラキアは狂ったのだ。そう思う。