啓蒙と社会性議論、もとい社会正義論

今は昔、「いい女塾」ブログ論争を餌に、前回のブログにおけるtrack back理想論と絡めてネタを捻り出そう。

まず、女塾そのものに関してはやったもの勝ちとしか言えない。何故なら現状のインターネットにおける表現活動およびそれに連鎖したビジネスに対する法的措置は「詐欺」等の犯罪が発生しない限り、行政や警察がメスを入れることはできないためだ。つまり「こうあるべき」論としての燃料にはなっても、この活動自体を是正する実行力は皆無なわけだ。有り得るとしたら著作権絡みで無理やり犯罪者の烙印を押すことだが、仮にそれが達成できたとしても「法的解釈で勝って勝負で負けた」状況に変わりは無いだろう。

で、そんなことはどうでもいい。重要なのは「裏切った」とか「ふざけんな」とかいう批判が数多く発生している点だ。統計まで取ってないから割合に関しては言及しないが、批判が目立っているという点は納得できると思われる。

こうして見ると、世の中の大半は(各人の御都合的解釈こそあれど)「暗黙の了解として空気のように存在してしかるべき『あるべき論』」をインターネットにも求めているということだ。その点において「いい女塾」は剥離していたからこうなった。それだけのことだ。

問題は、こうした事実に対し何を理想として次に進もうとするかだ。つまり今後「いい女塾」みたいな在り方を許さないために取り組むべきなのかどうか。もし投票だけ行ったとしたら「許さない」側が勝つのではないかと漠然とながら思う。

では、その根拠は何だろう。みんな感覚的にそう思うからだろうか。もしそれがまかり通るなら、女は黙って家事してろという論旨は今でもまかり通っていいことになる。極論だが、事実への反証、あるべき姿への是正というのは論理的根拠がなければならない。未だに女性社員が(世に言う)総合職として働く職場では種々の弊害が男only社会よりも目立つ現在の社会で、それでもそれを理由に女性が排除されてはならないと主張される理由は「男女差別は現行社会形成における相対的権力層のエゴであって、それ以外の論理的根拠がないから」だ。

では、「いい女塾」が論理的に否定される理由があるとしたら、何だろう。


・釣り:金銭詐欺や事実の明確な詐称をしていないため、これを封じる実行力がない。雰囲気で「使うべきではない」が通るならば、この世の中において努力義務と義務という概念を使い分ける必要はなくなる。
・やらせ:とりあえずテレホンショッピングからサクラを無くしてから語ろう。
・ブログと金銭との関係:私が語るよりR30氏の記述を参考にしてもらったほうが明確だったりする。あえて個人的所感を申し上げておくと「現代において、カネと人間の活動を切り離そうとする論拠を作ろうとすること自体がナンセンス」
というわけで、実は論理的に叩き潰す方法がない。重箱の隅をつつけば別だが、基本的にマクロ視点で否定できない事象というのは肯定派と否定派の骨相学的論争に留まるので実行力にならない。そして何より、世でカネと権力を握っている層というのはブログであろうが何であろうが、カネになるモノの味方をする。

だからこそ、人は情報の取捨選択、選別のための視野と視点を磨かなければならない。世にあふれる情報の有効活用のためにせよ、踊らされないためにせよ、基本的にそれが求められることには変わらない。扇動に成功した他者を感情的に否定するより、己が対抗策を身に纏う方が建設的だ。

そして、「いい女塾」の再来を防ぐためには上記の対抗策が一般に普及すればいいのだ。だがそんなことはほぼ間違いなく不可能だろう。あるべき姿の啓蒙というモノがいかに不毛なのかはtrack backあるべき論でも触れた人間の本質的愚生の象徴だからだ。

これに対し「諦めたら終わり」という諸君。君たちで未来を築いてくれ。そして、気付いてくれ。