自由に疲れたインターネット住民

最近ネタを思いついては「あー自分が書いてて面白くねー」でお蔵入りさせていたら一週間経ってしまった。ここは無理やり書いてみよう。

ITmedia小寺信良氏がNifty-Serveを語ってくれている。こういうネタは前{(インター)ネット}時代をナマで経験してこなかった人間にはとてもありがたいので、是非今後もこうした語り部的な内容を期待したい。

さて。上で紹介した記事は乱暴に要約すると「SNSパソコン通信の匂いを感じる」という話なのだが、これは私の知人も言っていた。私は知人にその話を聞くまでそう思わなかったが、小寺氏もこういうスタンスで切ってくるということはどうやら一定の割合の経験者がそう思っているようだ。

Nifty-Serveのようなパソコン通信を経験していない私が比較論を語るのはナンセンスなので、ここはSNSとインターネットに限った話をしよう。SNS自体はマクロ的に見て成功しているわけだが、これはインターネットが「自由すぎる自由に疲れた」というひとつの節目を迎えた、ということだろう。あーすでにこの時点で書いてて面白くねぇ。誰か絶対言っていそうなことだ。というか知人が言ってたことだしorz

とまぁ投げ出すのも何なので続けよう。つまりだ、2chに代表される「便所の落書きが遠慮なく出来る」インターネットの自由…もとい無秩序性に辟易したけれど、インターネットリソースそのものがもたらす知的刺激とコミュニケーションの可能性には魅力を感じる連中にとってSNSは良い避難所だったのではないかということだ。というか上記知人がそのようなニュアンスで語っていた。これはほぼ伝聞だ。(ぉぃ

例えば、ネットでちょっと有名になると声援よりも罵詈雑言が多くなる。これが理由でサイトを閉じる連中も少なくない。必要以上に広げるつもりのなかった風呂敷がいつのまにか望まない連中に土足で踏みにじられるなんてことはインターネットにおいて珍しくない。インターネットは自分が御都合主義的に使える一方で、他人の御都合主義を抑止することが出来ない難点を持つ。

このデメリット部分を抑制しようと言う方向性がSNSだった。不法侵入者はゼロでこそないものの、特別な知識が無くても「(ネット上の)誰が書いたのか追える」仕組みその他でインターネットに社会性を義務付けたルールは十分評価に値するだろう。

結果、SNSは「自由すぎるインターネットには疲れたけれど、読みたいときに読んで書きたいときに書ける場所としてのインターネットは悪くないよね」という「ぬるま湯のような(良くも悪くも)狭い限定コミュニティ形成」に一役買った。言うなれば「インターネットという都会に出てみたけれど、やっぱり田舎がいいや」という感覚である。

こう書くとSNSが批判されていると受け取る人間がいるかもしれないので、そうではないことを記しておこう。というのも、SNSはインターネットの無秩序性を一方的に駆逐はしていないからだ。Niftyが終わったのは単なる採算性の問題であってSNSという代替がなくても遠からず訪れるものだったし、2chは今でもぶいぶい言わせている。これは垣根を望むものとそうでないものとの住み分けができている好例だと取れるのだが、どうだろう。インターネット及びSNSの仕組みそのものにメスを入れる余地はあるかもしれないが、SNSの発生はインターネット成熟の路線として無難な一段を踏んだと見てよいのではないだろうか。

あと、SNSは差別的と叫ぶ奴。素直に「紹介してくれる人がいない自分」を認めて、嘆け。世界はお前のためにあるのではない。