社会原則とイレギュラーに対する受難

Simpleが久々に面白い表現をしている。"犯罪もボランティアも同じ"というタイトルで、ギブアンドテイクが基準の社会構造を語っている。内容は非常に的を射ているので、そこには言及しない。以後はあくまで私の雑感だ。

私自身、ギブアンドテイクがないと落ち着かない人間だ。親子であれ、男女であれ、ビジネスであれ、そこには必ずその形式がある。単にそれを明文化すると「冷たい感じがする」という意識があるせいで、みんなそれを口にしないだけだ。私はそう思っている。

ただ、ときどきその原則に乗っていないような気がする人間が現れる。所謂「(客観的に見ると)損をしている人間」というやつだ。本人は「自分が嬉しいから構わない」みたいなことを言うのだが、それだと私自身の価値観で言うギブアンドテイクに合致しないから、結果として私はすごく落ち着かなくなる。でも追求すると価値観に対する議論や争いに発展する可能性があるから、今のところそれは避けている。

私は、そういうことが出来る人を「満たされている人」と見なす。つまり自分が人より恵まれているんだと言うことを自覚できて、そんな自分を幸せだと思えている人間だということだ。それが無意識であれ、意識的なものであれ、そうした行動はそういう原点がないと出来ないと思う。だから私には一生辿り着けない場所だとも思うのだ。

お金に振り回されないためには、お金がないことによって顕在化する歯痒さを経験しない必要がある。一度でも経験すると、ここに対する固執と警戒は頭の片隅から消えなくなる。

家庭に理想を抱かないためには、過去から現実の家庭が(コンプレックスを抱かない程度のレベルに)満たされている必要がある。隣の芝生が青く見えてしまった時点で、自分が作る家庭にそれを取り込もうとしてしまう。そしてそれを形成する配偶者や家族にそれを求めるようになる。そしてそれが達成されない境遇を悲観する。

寂しさに囚われてしまわないためには、寂しさを感じない必要がある。当たり前のように誰かがいて、それはふとしたことでは失われないものなのだと思える現実がなければならない。誰かひとりではなく、何人か以上の「考えてみれば自分の周りにはありがたい人がいっぱいいるんだなあ」と思える現実が必要だ。

こうした前提があってはじめて「自分が獲得することにこだわらない何か」が他者にできるようになる。私は自分が満たされていないと思っているからこそ、他者をそう思っている。

さて。こうした例外的存在に遭ったら、みんなどう思うのだろう。意地でも何らかのギブアンドテイクの型に押し込めて無理やり自分を納得させるだろうか。それとも「こんな人もいるんだなぁ」と思って済むのだろうか。

それは、ギブアンドテイクという原則に固執するかどうか次第だと思う。私は、できるだけこれを緩めたいと思うのだ。世界の答えを見るには、自分の視野は狭すぎるから。

あ、一応オチを用意しないと。犯罪者は原則として捕まるリスクを背負ってるから因果応報は一応成り立ってる。賢い奴はそれが特権階級なだけ。ボランティアは「私は偉い」というナルシストの証明でFA。自慢しないボランティアは勘違いして世の中を生きていける果報者。なんて簡単なギブアンドテイク! 反社会的な側面は否めないけどな。

そこ、オチいらないとか言わない。