インターネットにおけるギブアンドテイク

今回、実に御都合主義な主張をなさっている方がいらっしゃったので追撃させていただく。こういう勘違いには二度と出てこないで欲しい。まぁ際限なく沸き続けるだろうが。

ターゲットは「いんちき」心理学研究所だ。ここは終了宣言をしたあげく弁明のために追記をするという愚行を示してくれているわけだが、この内容が本当に馬鹿馬鹿しい。取り上げるときりがないのだが、最も端的な部分は2月8日付けの"終了:その後"の記述に尽きる。


問題のある文章はもう書くのはやめよう(終了しよう)という結論に至るのは妥当だと思います。

この発言に基づいて考えると、そもそも2月8日付けの"終了:その後"自体書かないほうがいいという結論なのにその中で書いているのだ。書かないと伝わらないから、なんていう奉仕精神から来ているものではない。それはこの内容が「俺はこのblogでこんなリアクションを期待していたのにお前らケチばかりつけやがってウワアァァァァァァァン」という一方的な悲観に満ちているからだ。そもそも浅野教授はインターネットのギブアンドテイクを理解していない。

blogは書き手が次の更新を約束しない。その担保が無い。だから読み手が反応しないことを嘆くこと自体がお門違いなのだ。これはblogに限らないインターネットの基本的性質だ。これは匿名性という表現をされることが多いが、基本的にインターネットは責任という担保を持たない。だからこそ書けることがあり、できることがある。我々のようなインターネットにおける発言者はそれをメリットとして感じているからこそ、無責任に記述するのだ。書きたいときに、書きたい内容を書く。それはblog著者でもコメンテーターとしての読者でも同じだ。

無論、インターネットは最初から無責任のために存在したわけではなかった。しかし社会生活において自分自身という発言主体に発言内容の責任が伴う堅苦しい世界と比べたとき、インターネットにどんなメリットがあったかという点を問えば自ずと答えは出る。これがインターネットが普及した大きな一因であることは間違いなく、それは今更否定しても仕方が無い。

つまりインターネットで発言するということは「無責任を前提とした土俵で語る」ことと同義であり、そこでいちいち期待したリアクションが来なかったこと、勘違いした罵倒が殺到することを嘆くこと自体が「勘違い」であり「お門違い」であり「自分はガキです」ということを表明していることになるのだ。

仮に今回の"終了:その後"がインターネットにおいて相互コミュニケーションは必要だから率先して行おうという啓蒙に乗っ取った発言だと解釈しても、残念ながら内容が嫉妬に満ちすぎている。私のようなお祭り好きが格好のネタにするだけだ。

浅野教授が「いんちき」心理学研究所で何をしたかったのかと言ったら「俺の言うことを聞けェェェェェェェエ!」という当たり前の意識だった。それ自体は別に構わなかった。だってインターネットにおける意思表明のデファクトスタンダードだから。なのに彼はそこに分不相応な「真摯なリアクション」というおおよそインターネットに無縁な相互コミュニケーションを求めた。そしてそれを表明してしまった。意識として誰でも期待するのは認める。それは現代日本社会に所属する人間が当然のように抱く「個人としての自分に対する壮大な期待感」だからだ。でも彼は叫んでしまった。それが悪いとは言わない。それこそ無責任な発言のユートピアであるインターネットにあるべき姿だ。だからこそ、見苦しい。彼の弁明は、彼が自身のblog読者に感じたことそのものではないだろうか?

もう一度思い返せ。自身が発言した内容を。


問題のある文章はもう書くのはやめよう(終了しよう)という結論に至るのは妥当だと思います。

blogを書いたけれど読者が期待したリアクションをしてくれませんでしたなんて弁明は、問題のある発言だと思わないのか?自分の主張さえ曲げる記述にケチがついても仕方が無いぞ。

ただしこれを釣りとして楽しんでいるなら、貴方の勝ちだ。私は素直に釣られた上で楽しもう。これぞギブアンドテイク。