大学における「教育」と「研究」を断定的に語る

というわけで前回のコメントにあった「教育」と「研究」について無理やり真面目に語る。実はこの点は骨相学的文化論の要素が強すぎるのであまり意味が無いのだが、無視すると平行線になるので。

先に、以下の定義をしておく。


文明:人類の生存と発展に必要な要素。衣食住は当然だが、宗教・信仰等の一部「大衆を支配するに値する力を持つ」精神論は人間の「精神崩壊しない生存」にとって大きな役割を占めるのでこちらに含む。
文化:生存には必ずしも必要ない要素。趣味・娯楽・芸術等。

まず文明としての「教育」について語る。その目的は以下のようになる。


「社会を構築する人間の基礎を次の世代に身に着けさせる」

そのために身に付けなければいけない要素は、以下の通りだ。(※は上層向け)


・コミュニケーション能力
・労働能力
・財政管理能力
※人間管理能力(人間を使役する)
※対外政治能力(他者の意図を読み、的確な判断で他権力を捌く)

これが達成されれば、手段は何でも構わない。これを為す上で必要なのは以下のノウハウだ。細かいのを挙げ連ねるときりがないのでとりあえずこんなところ。


・日本語の読み書き聞き語り
・最低限の四則計算と収入支出管理
・職のための技術
・他者との利害関係処理
※アメとムチ政策の実施方法
※権力拡大・均衡・維持
※knowledge of tactics and strategy
※propaganda / Agitation skill
※connection!

現代日本はこれを義務教育という形で為そうとしてきた。そしてそれは概ね成功しているといっていい。最近は例外値が目立つが、それはマスコミというものの影響度が変わっただけなので無視する

さて、改めて考えよう。高等教育である大学が果たすべき「教育」は何か。おそらく一部の「職のための技術」と「他者との利害関係処理」だ。だが、これでさえあくまで一部の中流階級にとってのものであって、必須ではない。むしろ主眼は※で示した上層向けの経験、知識を得る踏み台と言ったほうがいい。

だが、実際には大半の中流階級が大学に通っている。すでにここが間違っている。ぶっちゃけ下・中流層が馴れ合い、日々不満を撒き散らしながら生きる上でのコミュニケーション能力や四則計算に大学なんていらない。つまり、現代日本では(精神的には)臆病な自尊心と尊大な羞恥心の恐怖から逃れるための代償行為として大学が存在しているわけだ。もっとも、実際には就職階層構築を手伝ってきたので、功罪として免除される部分でもあるだろう。実際、オイルショック後の雇用に対抗する手段は高学歴になってしまったのだから。庶民も自ら望んでそうなったわけではないといえばそうだろう。

結局何が言いたいのかと言うと、「教育」という観点で大学に質や意義を問うのはナンセンスだということだ。語る余地があるとすれば上層が集いやすい場所、上層が上層同士繋がるための前提条件としていかに機能しているか、という点だろう。そういう意味では東大に税金が使われる意味はある。彼らは将来日本の舵取りを良くも悪くも行う立場になるのだから。逆にいえば他はいらん。素直に法人化しよう。

つまるところ大学問題において語るべきは、文明としての「研究」なのだ。その目的は…


・次なる脅威(外国や地球規模的脅威)に対抗する術を体系的に実現できるようにする

抽象的で申し訳ないが、要は「外国や地球自体に何があっても大丈夫な対抗策」を確立させるということだ。そしてその達成のために必要な要素は以下の2点につきる。


・研究の目的がそれから完全に逸脱していない(可能な限りそれに直結する内容にする)よう確かめる
・研究価値があると判断された研究自身を妨げない予算・環境及び人材の整備を行う

要は「研究者は自己満足に浸らず」「周りは研究の邪魔をしない」それだけでいい。研究自体が報われる、報われないなど後でいい。主眼を見失ってはならない。

ただし、世の中奇麗事ばかりではない。研究の成果は保証されず、また仮に成功するものであっても効果が実に漠然としていたり、超長期的目算に基づくものである場合はスポンサーがついてくれない。金が無ければ研究の前提が整わない。だからこそ税金が使われてしかるべきなのだ。問題は単にそれを勘違いして使う馬鹿がいる場合があるだけの話だ。

だが、そういう人間がそういう風に育っていることは大学自体の責任ではない。それまでの人間としての形成自体の問題だから、予算云々とか税金云々とか口を挟む場所ではない。国家経営におけるレベル維持において、実は「研究」という観点からの税金投与は妥当だと言える。あとはそこに辿り付ける連中の質をいかに前もってまっとうにしておくかだけだ。それは義務教育以前に家庭とそれを取り巻く環境の問題だ(*注)。

とはいえ、大学は完全に無責任であって良いわけではない。研究には目標が必要で、それを示すきっかけは先人であり、先達だからだ。だから並河助教授が前回のコメントで示してくれた"出発点"は実にあるべき姿である。

「勉強の嫌いな人間に教師が勤まるわけないだろ。学生に見せる背中がすすけてちゃいかんだろ」

だからこそ今の大学にこれが感じられないと批判されるわけですがね。教授側が玉石混淆で、悪いほうを叩く勢いのが目立ちますから。玉石倶に焦がることのないよう祈るばかりです。そして玉を志す者が石とならないよう切に願うものであります。

あと、一応補足しておくが「文化論としての大学」は完全にお門違いな。文化論は社会的な存在意義ではなく、それを求める個々人が欲求として追求するべき問題だからだ。

結論として大学問題は大学に課せられた使命である「研究」の分野さえしっかり全うしていれば、一部権力構造叩き以外は起こらないってことですよ。だから大学に関わる諸氏は本懐を思い起こしてしっかりとそれを示してください。じゃないと本当に税金が使えなくなって職を失いますよ、そのうち……。

注:人間教育は地球も国家も狭くなった昨今、人間の在り方を教える地域基盤自体が安定しないものになったので一概にどこの責任とは言えない。ただし転勤等を繰り返させる一部業界の罪は間違いなく大きい。