中流階級を否定するクビダイ作戦

前回の続き。大学という機関が持つ機構自体を論点に据えてみよう。

人が集えば、そこに学び舎が生まれるという発想がある。この点に関しては、並河助教授のブログ"一日一喝"以下のように書いている。


学ぶ人Aがいて、学ぶ人Bがいて、互いに相手を意識して関係ができると、極端に言えば教えるという行為がまったくなくても学習組織として成り立ちます。
これは真実だ。三人寄れば文殊の知恵ではないが、同系の人間が集うことで造詣が深まることは紛れも無い事実で、お互いに良い刺激になる。Nakada Hiroshi氏も自身のブログ"se acabo"にて"つまりは均質化していくことへの苛立ち"と題した回で、そうした人間が集まる場所にいたことを「幸運」だと述べている。だからこそ地域のためと叫びながら子孫に帰郷を求める田舎は廃れるべきなのだが、それは別問題なのでここでは割愛しよう。

ただし問題となるのが、集う人間があらかじめ持っているリソースだ。残念ながらハイレベルな知識をブレインストーミングさせられる前提条件を大学に持ち込める層というのは、一定以上の教養レベルを幼少から提供されてきた層、つまり世においてハイクラスな連中の子どもなのだ。

世にあふれる中流家庭は大学の名前が就職に響くことは分かっていても、その質に関しては無頓着だから受験勉強対策に必死になって塾や家庭教師に金を捨てる。だがまがりなりにもハイクラスがハイクラスたる所以を認識できているハイクラスは、次世代にもハイクラスがハイクラスたるエッセンスを幼少のころから与える。ハイクラスにとって大学は単なる「持ってて当たり前の前提記号」に過ぎず、必死でそれを獲得させられた挙句に卒業後は有名企業と言う記号を期待される中流階級の受験ジャンキーとはそもそも立ち位置が違う。言うなればローヤルゼリーで育てられた女王蜂と、それを取り巻く働き蜂の立場だ。つまり大学が文殊の知恵を生み出すサロンになるためには、ハイクラスな環境から生み出されたハイブリッドが必要で、それは得てして富裕層や権力者から生まれてくるわけだ。それは婉曲的に見れば、大学から権力構造や経済構造を切り離すことが出来ない=教育が次世代を育てると言う崇高な理想の下にはない、ことを意味する。

とはいえ上記は文系の出世コース確定要素としての大学であって、学問そのものに関してはこの限りではない。理系は医学や薬学のような確定した食い扶持を求める層以外においては本人の研究意識が肝なので、必ずしも上記のようなハイブリッド設計論にはあてはまらない(※もっとも、技術追求を意識できる程度の専門性に触れるきっかけという前提は必要な訳だが)。重要なのは所属した研究機関の予算と保有(あるいは接触する機会を持てる)リソースの質と量であって、それはつまり「それまでの大学実績(たとえ名前だけでも)」と「周囲にいる人間のレベル」だ。ただし問題は、それを高レベルに保とうとした場合に一番安易な方法が「国立大学」というお冠だったりするわけだ。それは民衆の意識もお役所の意識もそうだから仕方が無い。そして研究そのものを優先する理系大学と言う機関は、国民の意識にメスを入れるような面倒事に触るわけがない。むしろそんなことするくらいなら次なる技術のために研究しているべきなのだ。

結局、大学問題と言うのは以下のように纏められる。


・民衆にとっては権力者と社会の悪を叩くネタ
・受験ビジネスにとっては現状維持であってもらわないと困るネタ
・マスコミにとっては受験ビジネス業界という名のスポンサーを怒らせないために触らないネタ
・当事者にとっては自分たちの食い扶持をなくさないためにもみ消すべきネタ
・文系にとっては階層構造を支える前提条件、理系にとっては研究が滞らない限りどうでもいい

さてここにどうやって大学問題を動かす原動力を見出す? 皆無だ。民衆が感情的に騒いで動くくらいならとっくに動いている。政治理念だけで人がついてくるならば、政治に金はかからない。忘れるな、大衆の話題を形成するマスコミは金で動いているのだ。

だが、だからこそクビダイ論争は新鮮だ。民衆が公立大学を公明正大に叩くネタを提供してくれたのだから。むしろ石原都知事としては、民衆が激怒して「もう公立大学そのものもいらないから大学に一切税金使うな!」と飛躍し、マスコミが無視できないほどの運動になってくれることを期待しているのではないかと邪推するくらいだ。

むしろそうあってくれ。教育に金が必要と言う現実を認識した一部の選ばれし者達が、選ばれし者となって花開くための道筋になる。そして日本の二極化をより促進してくれるだろう。中流階級壊滅ばんざーい。

自分で書いてて思うが、そんなことは万が一にも無いと思う。

最後に。これはあくまで文明論としての大学であって、文化論としての大学は全く別個である。ただし、文化として存在する大学は皮肉にも現実逃避のきっかけを与える甘えの余白となってしまうのだが。それが社会悪なのかどうかは意見が分かれるところ。