日本で愛を叫ぶ共依存という名の屈折

exciteが『エキニュー総研』で面白い特集を組んでいた。あなたの恋愛、共依存じゃない?"というテーマで、共依存とは何かを説明している。実はこれ2003年6月の記事なのだが、私は今日まで知らなかった。時流に遅れるとはこういうことか。でもきっとexciteを周ってない諸氏もいるだろうから開き直って紹介する。じゃないと今回のネタがない。

さて、そもそも共依存とは何なのか。それは上で紹介してもらった記事でほぼ的を射ているのだが、Wikipediaではこう記述されている。似たような例では代理ミュンヒハウゼン症候群がある。また、エキニュー総研ではこんな切り方もしている。


相手のためを思って耐えるとか、日本において美徳とされていることが共依存的だったりするからな。

結論を言えば、共依存という概念は「先進国において人は一人で生きていけるようになったのに、今でも無根拠に寄添い合おうとする衝動に駆られる人間たちに与えられた記号」だろう。つまり「相手にとっての自分の価値という贅沢な欲求を充たせる快感、それがもたらす麻薬中毒に陥った連中に対する定義」なのだ。

無論これは極端論だ。実際、「人間はひとりじゃ生きていけないんだ」という説教は今でも通じる。だがそれは正確には「社会形成の観点からすれば、人間は(マクロ的には)一人では生きていけない」のである。個人が個人であることができる社会そのものは間接的に多くの人間に支えられているためだ。

逆を言えば「生存において直接的な人間関係を構築する必要性は既にないから、日常生活においては一人で生きていける」のである。日々接する人々、直接的な人間関係において知人や友人は「要否」の観点で言えば実は既に「必要ない」のである。それは中流階級がほぼ標準化した先進国において、貨幣経済の恩恵が大衆レベルに広まった当然の結果なのだ。お金さえあれば衣食住には事足り、飢饉や災害でそれが脅かされる確率は飛躍的に低下した。無論、地震等でひっくりかえされる例は絶えないが、それは「個人」というレベルまで落とし込めば、命さえあればお金で住み替えその他が効く。つまり何らかの形でお金が稼げる個人にとって「人はひとりじゃ生きていけないんだ」はもう通じないのだ。

でも、だからこそ今の親世代は恐れている。現実がそうなってしまったからこそ、自分の子どもたちが自分を見捨ててしまえる現実を身にまとっていることを無意識的に恐れている。自分たちが手塩にかけて育て、老後を養ってもらう(かつ「親への感謝」という形で尊厳を保ってもらうことで老後の精神安定を図ろうとする)つもりだった存在としての子どもが「もう一人で生きていけるからお前はいらない」と言い出すかもしれないことを恐れている。

似たようなことが恋愛でも起きている。相手にとって、究極的には必要ない「他人」である自分。そんな自分を、それでも必要としてもらいたいという衝動。それを充たすために、相手が抱える社会不適応を自分が補う。そしてその状況を日常化させて、自分なしでは今の状態を保てなくする。

だから現代は愛という概念を叫ぶ。自分たちが浸かっていたい「必要とされる」快感を充たすために。その衝動から発生する種々の消費活動を新たな食い扶持にしたいと思っている経済界のために。

最後に断っておくが、愛の定義は固まっていない。あとは自分で決めてくれ。