天性として心理的に処理しなければならない概念

世の中は「生まれつき」とか「選ばれた」とかいう表現で「成功者」を語ることがあるが、実際そうとでも扱わないと心理的に耐えられないものはある。それが庶民の器だからだ。実際、私もその類だ。相対ではなく絶対的な何かを持たない人間というのはえてしてそういうモノであると信じたい。じゃないと自分は負け犬だから。ええ負け犬ですとも。

閑話休題

最近思ったのだが、世の中を渡っていくのに楽な天性として「負に対する無自覚」があるのではないかと思った。自分に対する負の感情を「相手の僻み」とか置換えをする必要も無く、「必要とされたいのに必要とされない」という行き過ぎた所属の欲求に焦燥することもなく、そして(相対的な意味で)自分が報われていない側面を持っていることさえ気付かないまま、ただ今の自分で恵まれている部分、与えられているモノ、手に入れられる何かに満足できる。なんて優しい空気だろう。

そう考えると分析思考自体が負け犬の証明なのかもしれない。そうしなければ心が壊れてしまうから。ということは政治家は皆社会に飲まれた負け犬であって、権力者にとっての権力はあくまで相対の中で自分を生かすための処方箋なのかもしれない。

世に称えられる何かがなくても笑っていられる誰かこそ、きっと最も恐るべき存在だろう。それは羨むことをなくせない自分には、絶対に辿り着けない境地だから。