いらない、と言ってしまえる自分

まず先に断っておくと、これは養うべき家族がいらっしゃる(あるいはこれから持つ/持ちたいと思っている)方とはほぼ無縁のコンテンツである。応用不可能ではないが、参考にしないほうが健全だ。

世では自己責任という言い換えに基づく勝ち組/負け組論争と広報が飛び交い、一方で職業不定の方々を否定する声が大仰に響く。実際は中流階級を維持する余裕が社会的になくなったから権力層が率先して自分たちを維持することを優先する構造――二極化を促進し、国は資産活用大失敗の責任を労働力低下による税金問題に挿げ替えてごまかしているといった具合だ。

さて低層がこれに対して挑む方法は何だろう。簡単、低層であることを認めることだ。

つまり「社会が俺たちを低層扱いするなら俺たちは率先して使い捨てられてやろう。ただしいずれ低層はそれによって支えられていた上層さえ維持できなくなるほど減少するぜ」という状況を意図的に作る方向を生み出せばよいのだ。

具体的には結婚もせず、結果的に出産も生じず、社会的に低層である人間の数は年々減少していく。結果、中流にしがみついていた人間に「今までの業績、今まで以上の業績を」という声が今以上に降りかかる。結果、中流層に過負荷が生じ、崩壊する。あとは上層の中でさらに低層と上層が分化することになるが、そのころには規模が縮小しすぎていて国家として機能しなくなる――といった具合だ。

ただ、意図しないでもいずれこの瞬間が来ることは現状の日本を見る限り目に見えている。あとは致命的な崩壊がいつ訪れるか、という違いに過ぎない。そうなったとき、皆は誰を責めるのだろう。何を仮想敵と見なし、次の理想を追うのだろう。そして、死んでいくのだろう?

そう考えると負け組は勝ち組になろうとするより、負け組として幸せのサイクルを作ることを目指したほうが健全ではないだろうか。限りない上への憧れと果てしないレースより、分相応な衣食住に満足できる精神構造を構築する術を見出したほうが、社会は人をより幸せに出来るのではないか。

雇用不安が焦燥を生み、結果空回りが多くなって不幸が増大するのならば、低層は低層なりに不安を感じないでいい構造を先に作ればいい。つまり「二極化」を安定させてしまうことのほうがよいのではないかということだ。低層から上層に上った奴は「例外」としてマスコミに与えればいい。低層は「俺だって」と思うのではなく「あいつは別」と割り切る。上層から低層に落ちた奴は晒し者にすることで「身の程知らずなことをするから」と精神補填のネタにすればいい。もっとも、落ちた者が必ずしも上層でありたかったかどうかは全く別の問題だ。望んだ堕落は決して不幸ではない。むしろ堕落を望むような「それまで所属していた上層という世界」こそ不幸の象徴だ。望まない堕落なら、それはただの間抜けだ。それさえも「例外」としてしまえばいい。

つまり、「例外」にならない限り不安はない――そういう分かれた世界を作ったほうがいいのではないかということだ。それはどういうことかというと、(働かないNeetはともかく)フリーターは世論として肯定しろということだ。フリーターなりの人生設計ができる世界になれば、フリーターという身分は社会不安をもたらさない。それだけで雇用問題は半減する。

これは究極的には「競争理念の剥奪」を意味するから、発展が劇的に遅くなる。だが人間はこれ以上生き急いで何をしようというのか。アイデンティティとレゾンデートルのために他者を食いつぶす範囲をこれ以上広げる姿を是とし、走り続けた後にいったいどんな幸せがあるのだろう。

世の中は不安に対する焦燥という無駄なエネルギーを鬱積させている。ならばまずそれを晴らす術こそが人を幸せに出来るのではないか。もし自殺の数や失業率が問題になるのならば、そこからだ。「職業不定でも(働き続ける意思がある限り)食いっぱぐれない」というある程度の確信さえ持てれば、それだけで歯車は回ると思うのだ。

競争の放棄が堕落であるのならばそれでいいではないか。終着が滅びであることが変わらないならば、堕落という幸せを食いつぶす「権利」だってあって然りだろう?