この世で一番の孤独

mixiでは白状したのですが、少々電池切れ気味です。燃料がすぐ切れます。前よりも激しく。
それはさておき、ここは世界の片隅で呪詛を唱える場所なので本題へ。ただし今回はかなり恣意的。
知における理想は「知の無知」である。だが、これは自覚して辿り付ける境地ではない。そもそも「知っていることを、知らない」ことは、本人の意識に無いからだ。それはあくまで他者がその人に対して示す評価でしかない。
だから、自覚して辿り付ける領域は「知の知」である。「(何かの物事について)一定の知識・情報を得ていることを、知っている」という状況だ。だがこれでさえ網羅には程遠く、どこかで見切りをつけるしかない。専門性を深めれば深めるほどに、その事象以外について「無知の知」に近くなり、対象を増やせば増やすほど「知の知」を極めるには遠くなる。
だがいずれにせよ「無知の無知」には「無知の知」に至った時点で戻れない。赤い扉を開けた後では、扉を選ぶ段階には戻れないのだ。そして「無知の知」を認める層は、実はまだまだ多くない。単に昔よりちょっと増えただけで。
無知の知」は自虐が前提にある。自分が知らないことを認めて、自分なりの手順で知ろうとする最初の段階だ。だが、これさえも認めない盲目や虚勢も世にはしっかりと存在する。この無自覚な信仰に対して「無知の知」を示そうとすることが啓蒙で、諦めて切り離すのがオタクだ。もっとも、両者は共存する傾向があるが。
啓蒙は啓蒙する対象がいなくなるまでその手段を探す。オタクはオタクになる前提を持った者に己と同じ基準を啓蒙し、その対象を見つけるたびにそれを続ける。単に対象が「無知の無知」であるか、「無知の知」であるかが違うだけだ。だが、啓蒙にもオタクにも果ては無く、その答えを見た時点で諦めるか、諦めないで狂い続けるか、狂ったことさえ認めて別のイキモノになる。すべては過渡であって、死が訪れるまでそれは終着ではない。

ただし。「知の無知」は完全に別格だ。あまりの少なさに、その人は多分この世で一番孤独だろう。だからこそ、優しく在れる。優しい自分にさえ気付かないまま。

空の境界』と『Melty Blood』は、こういうことを言っているのだと思う。