世界の片隅で呪詛を唱えるblogerたち

はーいSimpleがやばいネタかましてくれちゃった。嬉しくてしょうがないねぇ、こういう論旨展開。何がいいって「他人を不幸にしたいオーラ」満載だってこと。親近感を通り越して殺意さえ沸くほど好みだよこういう文章。

民主主義は自らを滅ぼす力を民衆に与えている、というブラックジョークがある。これはどういうことかというと、「理想に基づいた奇麗事」がまかり通る世の中になると、汚い部分があってこそ成り立っていたシステムが崩壊して、社会自体がダメになってしまうということだ。

例えば「家族は愛し合うべきだ」という概念。現代日本でこれに是非を問うた場合、ほぼ間違いなく是とされる。しかし実は、家族に愛が必要なのは、家族を保つための苦肉の策である。というのも、今の世の中で用意されたレールをふつーに歩いていると、よほどバカをやらない限り自立できてしまう。保証人など名義と経済力を借りなければいけない瞬間こそあるが、逆にいえばそれがなんとかなってしまう(あるいはそれが必要な贅沢に手を出さない)と本当に「独りで生きる」ことができてしまう。こうなると、家族は必須ではない。では、子を産んだ親にとって子どもがアイデンティティ形成のために必要だった場合はどうするか? 答えは簡単。「家族は愛し合うべきなんだ!」と、同じような寂しさにまみれた専業主婦と徒党を組んで叫べばいいのだ。愛というのは一概に否定しにくい概念だし、国としては老後取り残された連中のケアを行政が担当するなんてまっぴらだから、家族愛と言う概念を肯定して各人に責任を背負わせる。

ほらこんな風に見ていくと、実は世の中を支えている「人間が本来あるべき姿」とされる「愛」とか「助け合い」とか「社会貢献」とかいうのは、実は国が国を維持するうえで「いかに各人に責務を負わせ、それを慣例的義務とするか」という観点に基づいた「国の都合で愚民を縛る都合のいい絵空事」と言えるのだ。

では改めて考えよう。こんな考え方が一般大衆に普及したらどうなるか? 答えは簡単、何を信じていいかわからないまま暴動を起こす。其々が其々の「悪」を見出し、攻撃しあう。後は国家崩壊へまっしぐらだ。

つまり「嘘を暴く正義」は実は「結果として国を滅ぼし、そこにいる国民を殺す害悪」なのだ。Simpleにはこの匂いがぷんぷんする。もっとも、既に知的レベルおよび経済レベルで貧富の差が拡大する基盤が出来上がったバブル崩壊後の日本ではこの手の暴露はただのネタバレであり、今更愚民が騒いだところで取り返しがつかないことなのだが。仮にあるとしても、一部の勘違いどもが当時の権力者にテロ行為する程度だろう。大勢は何も動かない。

そもそもSimple的意見はふつーの人が読んでもその場で怒ってはい終わり。次の日には忘れてる、そんな程度だろう。Simpleに共感し、これを広めようとする輩はSimpleと同じ「お前らみんな真実を知って不幸になれやー!」という病的衝動に取り憑かれた「周りのふつー人より精神的な欲求充足の機会に恵まれなかった症候群」の連中だろう。

そういう意味では、blogによるジャーナリズムや社会批判というのはmaaと愉快な仲間たちユダヤ人ネタで言及しているように「代償行為」なのだ。ダン・ギルモアの叫びが例え的を射ていようとも、blogerが自慰行為に浸っている事実そのものは揺るがない。大衆はサングラスなんてかけたがらない。エリートは、それを分かっているのだ。分かっていないのは、エリート気取りだけなのだ。残念!