夫婦愛という「普通」

今回のSimpleはちょっと苦しい。明確に「こうであってほしい願望」として「夫婦に愛情は必要ない」と主張しているに過ぎない。これまでのような、論理性を前面に出した勢いがない。

これは「夫婦にはやっぱり一定の愛情が必要だよ」と言っているようなものだ。実際、私は夫婦に「とりあえず世間一般の価値観で否定されない程度の常識に基づいた愛情という共通認識」は必要だと思う。

人間というやつはどんなに論理構築をしても、「普通」というものから完全に脱却したいとは思わない。人間は欲張りだから、「普通」としてみんなと共感できる部分と、「特別」としてみんなより優遇される部分を両方持ちたいと思う生き物になっている。少なくとも、日本社会に所属している連中はそうだろう。もし「普通」である側面を全く必要としない人間が一定以上いたならば、日本市場はもっとニッチ寄りなマーケットが小粒ながら広範に存在する社会になっているだろう。だが、今でも日本はワールドカップ需要が発生し、年末年始はテレビ番組予定雑誌が多数発売する社会だ。それは「大勢が共通認識として持っている生活の一部」を「普通」として身にまとっている証拠だ。これに依らないのは一部のGeekや世捨て人だろう。「夫婦の愛情」というやつは、今でもこの「普通」に属するものなのだ。たとえ趣味や嗜好、人生観といった価値観が多様化しても、多くの物語やフィクションドラマがnounaiに叩き込んだ愛という名の幻想は「幻想のまま必要な」要素なのだ。

愛がないより、愛があったほうが幸せなのだ。騙されたまま死ぬまで生きるほうが、騙されることさえないまま死ぬまで生きるよりずっといいということなのだ。必要なのは騙しつづけてくれる強さを持った相手であって、真実という残酷さをもたらす傲慢ではない。

ゼイ・リブの世界へようこそ。ここではサングラスがないと、真実は見通せない。そしてそこにサングラスがあっても、多くの人はサングラスの先にある世界を拒絶し、サングラスを投げ捨てる。ここは、そういう場所だ。