トートロジーというドツボな循環

今回はできるだけ簡単な内容にしてみよう。R30さんのブログ「トートロジーに熱くなる」というタイトルの回があったのでご紹介する。なお、トートロジーとは「同語反復」のことで、同じ言葉を意味もなく繰り返して使うことだ。詳しくはgoo辞書あたりで見て欲しい。


要するに内田教授はトートロジー(同語反復)の話をしているんだけれども、教授の言うとおり、世の中の文系の人っていうのは、自分の論じている内容のトートロジーに意外なほど鈍感だよね。という自分も文系なんだが。正直、これは学生に限らないな、と最近思う。

 内田教授がトートロジーの例として挙げているのは、院生の書いたジェンダー論だが、これって最近議論の熱かったジャーナリズム論についても言える。だいたいマスコミの中の人やそれに絡む人たちもみんな文系ばっかりだから、どいつもこいつも定義をすっぽかして印象論であーだこーだ言うばかり。で、まとめてみると「ジャーナリズムとはジャーナリストの述べたテクストである」「ジャーナリストとはジャーナリズムのテクストを書く人である」っていうところがぐるぐると循環していて、不毛なことこの上ない。

このブログが言わんとしていることは何か? 要は「自分が意見を言うときは、立ち位置を省みようね」でいいと思うのだ。でも、これでも分かりにくい。「省みる」って何するの? と言われてしまう。そこでもっと分かりやすく言うと「意見を言うときは、意見の根拠が他人に通じるかどうかを確認してからにしようね」といった感じだろうか。

じゃあ「意見の根拠が他人に通じるかどうか」ってどういうことなのだろう? 「トートロジーに熱くなる」の元ネタとなっている内田樹教授のブログのエントリ「困った人たち」からネタを借りよう。

「一万円にどうして価値があるか分からない?ははは、バカだなあ。一万円くれたら教えてやるよ」

この文で最も難しいのは「価値」という発想が人によって違うモノとなってしまっているということだ。例えば「松阪牛を食べるためなら1万円払ってもいい」という人と「何であろうと牛肉は嫌い」という人では「松阪牛に1万円を払う」ことに対する1万円の価値は違うことになる。値札がついた価値として1万円でも「どうして価値があるのか」という疑問への答えにはならない。だって牛肉が嫌いな人にはお金を払う「価値」がないのだから。

つまり、「価値」の判断基準は人それぞれだからこの疑問には決着はつかないよ――それが「1万円にどうして価値があるか分からない」の答えだ。でもこんなことを言われたら、普通は「馬鹿にされた」と思う。あるいは「難しいことを言われて誤魔化された」もやもやした気分になるだろう。

これを追求し始めると「何が正しいのか」が分からなくなってくる。何故なら自分が「信じている」判断基準が他人に通じないことが多すぎるからだ。よくあるネタとして「愛とは何か」と尋ねられたら、きっと人によって意見は違うだろう。「価値」とか「ジャーナリズム」とかいった概念論はこうした「あやふやなままにされている部分」が多すぎて、そもそも語り手が「立ち位置をお互いに理解する」ということ自体がほとんど不可能になっている。

こうした事実があることは、けっして良いことではない。だが「では、議論を交わす出発点として正しい基準は何か?」ということを決めようとしても無理だ。だってそれを決めるための「正しいとされる判断基準」が統一されてないんだから。「鶏が先か卵が先か」という状況に陥ってしまう。

だから、せめて「今回はこういう風にしよう」というルールをお互いに決めて、その範囲に限定して「語り合う」必要がある。でもこれを行うと、その時点でほぼ結論が出てしまう。人間は戦略を練る生き物だから、辿り着く結論を見据えた上でルールを作ろうとするからだ。結局、ルールを作ること自体が堂々巡りになる。その原点は「正しいことを求めたい」ではなく「自分にとって都合がいいことが言いたい」という大多数の人間に存在する無意識的な欲求にあるのだが、ここでは本論から外れるので無視。

だがこうして考えてみると、トートロジーというものを語ること自体がすでにトートロジーになっている気がする。自分からドツボにはまってる、そんな感覚。