読解力低下の背景を社会構造から考える

日本の子どもの学力が低下しているネタについて、ブログ時評で興味深い記述があったので紹介する。

それ以上に、読解力は『ひと粘りする忍耐力』という側面があります。

何気ない一文のようだが、これは重要だ。要は「自分なりに咀嚼し、後のことを考えて修める能力」のことで、これができない人間は仕事でも「一から十まで指示を下さい。分からないところは分かるまで教えてください」と脳味噌がキムチで出来ているような発言を平気でする。発言できるならまだいいが、こうした意識を明確に出来ないまま御都合主義な不満だけぶーたれる連中のほうがむしろ多い。

忍耐力というのは別に子どもや読解力という論点に限った話ではない、総合的な「自らの判断で選択する力」の指標だ。別にその時点での選択が間違っていても、それが原因で死亡しない限りは失敗経験という財産となる。死んだらそれまでだし、死ななければ同じ失敗をしないために考え、対策を立てて実践すればいいのだ。読解力もそんな「生きる上での試行錯誤」のひとつに過ぎない。

一方でこのような記述もある。

また子どもの『粘り』=『読解力』が無い理由として、世の中総じて『感情』が先に立ちすぎている感じがします。世の中には感情論が溢れ、少し論理的に考えればさして問題でないことや解決するにはたった一つの方法しか無いことに、引きずり回され過ぎている。筋道立てて周りにも目を配りながら論理的に考えることを封印して『自分が快か不快か』だけで感情を撒き散らしていると、起こった出来事に対しての理解力・判断力が失われてしまいます

では改めてまじめに考えよう。昨今の子どもたち、いや日本人がこうなったのは何故か? 日本に限らず同じような情勢の地域が他にもあるとしたら何故か? その原因は「人権という理想的幻想を無節操に叫ぶ姿」と「一時的感情に流される陪審制度的大衆意識」にある。

わけわかんねーよ、という方のために例えを出そう。映画『プライベート・ライアン』においてライアン2等兵が戦線から呼び戻されるきっかけとなったのは、4人の息子を戦争に送り出したライアンの母にとって唯一生き残った息子になってしまったからだ。しかし、これは合理的に見ても、兵士の命に対する平等という視点からも「妥当だと判断できない」命令だ。それでもこの作品がそういう観点からして叩かれる以前に話題を呼ぶのは「母親の心理」が重要であり、仮に疑問を持つ者がいてもそれを表に出すことがタブーだからだ。これはまだフィクションだから一応「作品叩き」というネタに収まるが、もしこれが現実で行われたら大激論を呼ぶだろう。母親の心理側から賛同する者、軍事と平等意識から猛反対する者、そもそも「戦争=悪」と論点を挿げ替える勘違い共、他にも色々出てきそうで想像しきれない。皮肉にも「戦争=悪」勘違いは「母親心理側」を吸収し得るので怖いのだが。ちなみに、まっとうな政治家ならこんなことやらないっていう根本的ツッコミはこの場では却下な。

閑話休題。つまり、感情論があふれた背景にはこうした「母性的保護」とそれを支える社会構造があるということだ。「ひとりの人名は地球より重い」とかいう幻想をネタに平気で番組や著作その他の作品が世に流れ、それを真に受けた連中がそれを自分にも適用して「私は地球よりも価値があるのよ! だから私を見て!」とか自己中に叫ぶわけだ。で、誰かが「私を見て!」と叫んでる一方で、相手を尊重してばかりで自分が何なのかわからなくなった視野狭窄症候群が出始める。そういった予備軍に「君も叫んでいいんだよ」ばりの「理解した風メッセージ」が込められたエッセイとか歌詞とか目にしてそいつらも同じように「私を見て!」と叫ぶわけだ。そして叫んだほうが勝つわけだ。こんな奴らに建設的な読解力や人生構築力が身につくはずが無い。叫べるかどうかの競争だ。それを口実に訴訟を起こせるか、大衆の意識を味方につけられるか競争だ。考えてしまったら負けなのだ。一歩踏みとどまってしまう思考力のある人間こそが、今の社会においては割を食うのだ。感情的言動が「犯罪と大衆倫理侵害」を起こしてその主体を社会的抹殺に追い込む瞬間が来るまで、その病的現象は続く。

一応断っておくが、私のマスコミ批判はかなり偏っているため真に受けないで欲しい。だが、マスコミが一時的な資料率上昇のためにこうした無責任な扇動を行っていることはすでに「実績」だ。明治時代に中江兆民大日本帝国憲法発布の際に民衆の姿を嘆いた状況が、ちゃんと今でも続いている。それから100年以上経ったというのに、だ!

煽り口調が過ぎたため本論に戻ろう。要は教育水準ってのは国民の姿の投影であって、子ども世代だけの問題じゃないってことだ。むしろ子どもは犠牲者だ。そうした状況を押し付けられた、場当たり主義的な現代の権力者及び大衆意識の負の産物だ。その点に立ち、己らが何を為してきた結果こうなったのか、そして何をしなければいけないのかという観点に立たなければならない。

だが実情は違う。マスコミは表向き権力層や「目立って悪い具体的事例」ばかりを取り上げて批判し、それしか知らない一般大衆はその意見だけを真に受けてさも時事情報に聡い振りをして日々を過ごす。そして皮肉にも、自浄作用を持っているかもしれない「考える層」はそもそもこうした連中に通じるメッセージを一般大衆レベルまで落としこめるだけの力が無い。これはジャーナリズムでも同様のことだ。インテリがインテリたる状況を作ってきたのは、知識階層化が所以であった。この点に関しては未識氏の日記が端的に示してくれているのでそちらを参照願いたいが、こうした知識層の傾向はこういった面でも仇になっている。

昔に戻れないなら、新たな「よりよい空気」を作るしかない。だが、責任の擦り付け合いをするだけのバブル崩壊後世代に果たしてこれが為せるであろうか。貧富の二極化、寿命の延びた老兵の負担。既得権益を振りかざす者たちが声高に叫ぶ今後の社会に差す光は、今のところ見えない。