ジャーナリズムを語る上での論点と目的

R30に対して先日行わせていただいたトラックバック"ジャーナリズムとインターネットに見る姿"について、"プロのジャーナリズムとは何かについて考えてみる・その2"に分かりやすい解説とさらなる発展論があったため紹介させていただく。ぶっちゃけここの煽り文句よりずっと分かりやすく、参考になると思われる。

さて上の件についてだが、現状分析としてすごく的確なのが以下の一文。今までの解説はこの結論のためにあったようなものだ。

結論めいたことを言うなら、前回エントリにコメントしてくれたpaprikaさんの言う「食えるかどうか」という現実態としてのプロの条件と、「客のために一定水準以上のアウトプットを出し続ける」という本来的なプロの条件が、ジャーナリズムの世界においては大きくねじれてしまっている、とこういうことなわけです。

一方でこのねじれを是正するには、以下のような取り組みが日本でもなければならないわけだ。

アメリカという社会が健全だなあと思うのは、そこでダン・ギルモアのように「公共に奉仕する意見を言える人間が必要だ、その機能を経済的に支えることが必要だと、我々は訴えなければならない。参加型ジャーナリズムの場に利益を生み出さなければならない」と叫ぶ人が出てくるってことだ。

では現実論として可能か、というと残念ながら難しい。というのも、『出る杭は打たれる』の意味が変わった今の日本では、こうした声明は個人的立場の安寧にとって非常にリスキーだからだ。仮に「もっと健全なジャーナリズムになろうぜ」という思想が漠然と大衆に受け入れられたとしても、その後の「具体的発表内容」に延々とケチがつく構図は想像に難くない。切込隊長を見れば一目瞭然だ。こうした活動を「自分の名前を曝け出して行う」ことがどれだけ辟易する作業となるか? 考えたくも無いというのが一般人の感覚だろう。

ではなぜこうした不毛な一面が出るのだろう? それは「今よりもっといい姿を目指して」という発展型発想に基づく論点と「これはこういうものなんだ」という伝統的思考ではそもそも目的意識が違うからだ。この件に関しては読者意識を優先した『革新派』と、あくまで職人としての位置付けを優先する『保守派』の争いと言い換えてもいい。

ちなみに私は前者寄りだ。理由は簡単、この件において保守は「俺の食い扶持にさわんじゃね!」という見苦しさ以外の何者でもないからだ。そもそも現状のジャーナリズムに論争が発生する理由は何だ? 読者の無理解か? 否、ビジネスとして行うジャーナリズムがビジネスとして行うが故に乗り越えられない壁を乗り越える具体策が出てきてなお、こうした保守的発想を振り翳して自分の位置を守ろうとする斜陽業界があるからだ。

ただ、その点を省みてしまっては『保守派』は負けだ。「自分たちを冷静に分析する」なんてことをやったら、彼らはニートと同じように「ああ、俺ってこんなにダメなんだ」と思い知って何も出来なくなってしまうだろう。そうならないために「選ばれたジャーナリスト」として自らに暗示をかける必要がある。そしてその暗示を他人に解かれないためにも、彼らが「得意」とするジャーナリズムを以って自分たちを肯定する。この姿に『平家にあらずんば人にあらず』を見ずにはいれらないのは私だけだろうか?

だが、同時に白状しておこう。私はインターネットが持つ影響力そのものに関しては現状の限り保守組だ。もしこれがテレビニュースほどの影響力になった暁には「インターネットを使う上での垣根」を越えた人間たちだからこそできたマスカレイド、そして「身も蓋も無い表現」がなくなってしまうからだ。せっかくのユートピアが「社会道徳という皮をかぶった視野狭窄的正義感」その他の「愚かな美意識」に侵されかねないと危惧しているからだろう。

もっとも、その際には新たなピーターパンが現れているかもしれないが。

余談。私のような書き方を選ばないトラックバックに対し、丁寧かつ的確な意見がwebに掲載された事実には正直驚いている。私の主張は読み手を非常に選ぶだけに、開き直って表現を選ばず書いているというのに……。こうした活用の余地があったこと、そして活用していただけたことをR30の著者様に、改めてこの場を借りて御礼申し上げたい。多謝。