ジャーナリズムとインターネットに見る姿

R30プロのジャーナリズムとは何かについて語ってくれている。まだ完結していないため、今後も要チェックだ……と拙い宣伝をすることで引用を許してもらおう。マイルール万歳。


(前略)テクストとしてだけ見た場合、例えば山本氏のキムタケに関する先日のコラム(こちらとこちら)は、明らかにプロのジャーナリズムの仕事の水準に達している。

なぜそう思うか。「今言うべきことを今言っている」という、団藤氏@朝日新聞の尊敬する新井直之教授によるジャーナリズムの基本定義(笑)を満たしていることに加えて、「独自に調べた1次情報」、「これまでになかった新しい見方」という、他人が読む価値のある文章の基本と思われる2つの要素が含まれていると思うからだ。

まず発表時期に関する指摘に就いて考えてみよう。考えてみれば当然のことなのだが、ジャーナリズムというものは時事情報に対して起こす活動であるため、時期が重要だ。たとえ結果論として正しいことを後で語れたとしても、それは批評であってジャーナリズムではない。かといって読者の意識を置いていくほど急ぎすぎた意見では「何を言ってるんだこいつは」と流されてしまう。そしてその情報を元に、グッドタイミングでそのネタを流用した連中が読者をモノにしてしまう。つまり、ジャーナリズムは戦争で言えばタクティクスよりストラテジーとしての意味合いが強いシロモノであるということだ。

一方で、唯一性についても言及している。今でも中学校国語で『空中ブランコ乗りのキキ』が扱われるのは伊達ではない、ということだ。唯一性に関する指摘については間違いなく真実で、人がそこに来る理由はそこにしかないものがあるときか、そこに行けばとりあえず大丈夫だという意識があるときだ。そしてどちらのほうが求心力として強いかと言うと、間違いなく前者だ。後者は前者に駆逐されるが、前者は後者に侵されないシェアを持てる。

私的意見として、ジャーナリズムはアジテーションだ。基本的に無知な大衆にもっともらしい意見を示し、頷かせれば勝利だ。あとはジャーナリストの間で「いかに他人の意見より的を射つつ、共感を得やすい内容にするか」という点で争うだけに過ぎない。それを満たすために、R30が指摘しているような「時期を読むセンスと唯一性」を磨く。そういう意味では実はweb上の高速道路組のが有利だ。商業におけるジャーナリズムは「煽りによる購読者集め」と「スポンサーへの擦り寄り」という「お金のための意識」が主体であって、時期を選ぶことや的を射ることに必ずしも注力できないからだ。それを補うためにあからさまな表現で個性を出そうとして、結果哀愁を漂わせている自称ジャーナリストは後を断たない。

だがこれは別の点を暗に示唆している。それは、ジャーナリズムは話題にはなっても力には成り得ないということだ。というのも、ジャーナリズムが巻き起こすものは憂さ積もる日常にいる大衆が権力層をnounaiで叩くための材料に過ぎないからだ。特に執筆に関して金を絡めていないweb上のジャーナリズムは例えるならばネトランにキャラ版権を無視された絵描きのようなもので、影響力と言う観点からすればマスメディアによる洗脳を行える権力層にあっというまに駆逐される程度のモノしかない。

そういう意味で、インターネットは弱者が自慰行為に浸るきっかけを大幅に増やした一方で、権力者と弱者の位置付けをより明確にしてしまったのではないかと思う。だが、むしろそれが正しいインターネットなのかもしれない。現代マスメディアに依存しきってしまった大衆が真実という幻想を追いかける場所、ユートピアとして存在し続けることが出来るこの場所は、アイデンティティクライシスという精神病患者末期症状があふれる現代にこそ必要なのだ。インターネットという処方箋によって患者は生き延び、権力者は別世界でラリることはできても食うために渋々現実に顔を出す弱者から油を搾り取る。

このライフサイクルはいつまで続くだろう。現実で核戦争が起きるまでだろうか。起きても止まらないようなら、きっとこれが本当に正しい姿なのだろう。