伽藍の堂

伽藍洞ということは、いくらでも詰め込めるということだろう。この幸せ者め、それ以上の可能性がどこにあると言うんだ――

これは蒼崎橙子だからこそ説得力のある言葉だ。伽藍洞である両義式自身には言えない。両義式は記憶が無い――伽藍洞であるが故に今を確信できる強さが無く、蒼崎橙子は知りすぎた――知識が詰まりすぎたからこそ弱くなってしまったからだ。

両義式には過去一定期間の記憶が無い。あるいは酷くあやふやである。これはつまり、今自分が考えていることの根拠が分からないということだ。

信じるということには時間を要する。初対面の人間の言うことを信じられる人間は本当に騙されたことの無い常識外れか、ただの馬鹿だ――そう思えるくらい、人間は人を騙せる。だからこそ、信じるということには時間を要する。長い間、自分と利害関係の絡む生活の中で、お互いを当てにしてもよいという確証を得てはじめて、その相手と言葉を信用する。そして、その相手が言うこと、その相手が言うことと同じようなことを言う人間の言葉と思想、それを支える周辺の事実や法を知り、それを「信じる」。

だが、両儀式は信じる過程に必要な過去の蓄積がない。でも、初対面の人間を信用する理由は無いという前提は持ってしまっている。だから、人の言うことは当てにならない。かといって、己の中に信じるものがない。信じるものが無いという自己はあるというのに、自己が信じるものは無い。だとしたら、これが己なのだと信じる根拠はどこにあるのか――

両儀式に答えは出ない。あるのはただ、ただひとつ失われなかった詩人のような名前の同級生の存在だけ。

一方で蒼崎橙子の思考には、どう足掻こうとも覆しがたい事実認識がある。蒼崎橙子と同じ価値をもつ人形を作ることが出来てしまう以上、今ここにいる蒼崎橙子に唯一無二の価値は無い。魔術を昇華し魔法に至ろうとも、それによって為せることがないならば至る価値は無い。魔術師は己の為すことが全て無駄であると覚悟し、それでも魔法に挑む。そうして魔法に至ったものは、魔法使いになっても世界を変えることなどできないのだと知る。或る者は狂い、或る者は諦める。ただ、蒼崎橙子は世界の根源に至る前にその事実を知ってしまっただけのことだ。生命製造の具現、誰も為しえなかったその「魔法」に至る前に。

知るということは、先に結果を見るということだ。それが思い込みであろうとも、それが本人にとっての答えならば、その道はそこで終わる。その道が魅せる「可能性への探求」を終わらせる。それを覆す根拠が無い限り。蒼崎橙子は己と寸分違わぬ、記憶さえ継承する人形を作った時点で悟った。己という存在を定義、証明することに意味は無いと。つまりそれは、自分が何を目指し、何を手に入れ、何を為すのかということ自体に意味がないということだ。それはきっと意図せずとも、先に連綿と続く自分と同じ人形がいつか辿り着いてしまう境地だから。蒼崎橙子は、人が世代という形で受け継ぐはずの循環を自分自身で体現してしまった代償として、知識のリセットを失った。それはつまり、無知から生まれる無謀、想像から生じる夢のような希望を失ったということだ。

蒼崎橙子は「魔術師としての目的」を見失った。不老不死ではないというのに終わりが無い。そんな己自身が定める限界など、自慰以外の何者でもない。終わらない時間の中で一分一秒を争うレースを自演しても仕方がない。だから、限界に対して立ち向かう強さ、困難を打ち破る強ささえ必要ない――仮に自分が勝てなくとも、それはいずれ誰かが勝つだろう困難だから。仮にそれが、蒼崎橙子でなかったとしても。

だからこそ、蒼崎橙子は羨む。何も無いが故に、何でも見出せる両義式を。信じるモノを自分で定められる、彼女を。

ただ、この世界は二人にとってしっかりとパンドラの箱だった。

両義式にはたったひとつの変わらない思い出と、それを支えてくれる現実がそこにあった。蒼崎橙子は、蒼崎橙子という存在が過去から続く「もう二度とありえない存在」だということ、生命の形成が周囲と非連続ではないという確固たる事実は見失わなかった。

だから二人は、世界を否定しない。する必要がないからではなく、それが自分を自分たらしめるモノだから――。