俯瞰風景

空の境界』に沿って連載ネタとしてどこまで持つか企画。

空からの視点は遠い。これは蒼崎橙子の表現である。

人間に高所恐怖症というものがあるのは何故だろう。それは人間が空を飛べないからだ。これは飛躍しすぎているが、もし飛べたのならば最も怖いのは「墜落までに体勢を持ち直すだけの余裕と時間が確保できない中途半端な高さ」であって「高い」ことではないことになるはずだ、という想像はきっと出来ると思う。

つまり、人間は空を飛べないからこそ「空からの視点」を恐れるのだ。それは自分の命を脅かす可能性だから。

では、飛ぶことが出来る人間がいたとしたらどうだろう。あるいは浮かぶだけにせよ、地から足を離すことが出来る人間はどんな視点と感覚を持つだろう? そんな人間たちにとって、空からの視点は普通だ。その気になれば到達できる、当たり前の感覚。飛べる人間にとっての、空からの視点という「常識」がそこにある。

でも、違う。周りのみんなは空を飛べない。この上から見下ろした世界の姿を知らない。だから、上から見下ろした世界に珍しさや感動は覚えても、その視点から見出せる「世界の姿」に着目しない。つまり、「上から見下ろせること」自体に感動し、「上から見下ろした世界の姿」そのものに気を配れない。これが、当たり前のように「飛べない」人間と、「飛べる」人間の差。

人間が空を飛びたいと思った最初の理由はきっと鳥を見たからだった。そして人間は道具を使って飛べるようになった。でも、飛んでいるものの常識は知らない。だって人間は空を飛ばないから。

人間にとって飛ぶことは手段だ。「翼」は海を越えた遠方に行くために、或いは地上を這いつくばるより速くそこへ辿り着くために使う「道具」だ。でも「足」を、歩くことを手段だと思う人間はあまりいない。歩けることは当たり前であって、それ以上があるならその時点で選ばれなくなる前提としての「常識」だ。

人間は、飛べなくて、歩けることが常識だ。だから歩いたときの感覚が常識で、そこが想像の基点になる。地に足をつけ、空を見上げる。地面と繋がった建物、煙突から空へ上っていく煙、落ちてくる雨粒。そこに、空からの視点はない。なくていいのだ。飛べない人間にとって、飛べる人間の感覚は本来なら無いもの――つまり、非常識だから。

だから、飛べる人間はそれだけで孤独だ。飛べる人間にとっての常識は、他の飛べない大多数の人間にとって、それだけで非常識だから。飛べるということは、身に付ける常識がかけ離れてしまうということ。常識の基準、つまり視点が「遠い」ということだ。

本編でもこれだけの咀嚼をちゃんとしてくれてるのに、橙子の語り口調に加えて眠り<ヒュプノス>とか死<タナトス>とか暗喩を絡めて演出を優先しているせいで分かりにくい俯瞰風景。これこそがまさに「視点の差」かもしれない。なんと皮肉なことだろう。

Simple is best, better, or lesser? No, it's dull and reckless.