怪獣使いと少年が示唆するモノ

私は切通理作自体はあまり好きではないのだが、この作品自体には語る価値がある。
前提知識として"怪獣使いと少年"とは何か、ということを知らなければそもそも何のことか分からないため、『帰ってきたウルトラマン』第33話を見て欲しい……見ないってな。orz

閑話休題。この作品を乱暴に語ると以下のようになる。出来うる限り感情推定表現は避ける。

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ある怪獣が地球にいました。この怪獣を封印するために、とある理由で地球を訪れていた宇宙人が力を使いました。封印しているだけなので、宇宙人が死ねば封印は解けてしまいます。

一方で、その宇宙人は(やっぱり)とある事情で倒れ、死にかけていた地球人の子ども(亮)を助けました。宇宙人は元々地球に滞在するつもりは無かったけれど、亮と共同生活を始めました。

しかし、地球の環境は宇宙人にとってよいものではなく、宇宙人は徐々に弱っていきました。そこで亮は、宇宙人と地球を離れるため、宇宙人が地球に来たとき、地下に隠した宇宙船を掘り起こすことにしました。そうして日夜、発掘作業にあけくれます。

とはいえ、その宇宙人も亮もイキモノですから、衣食住なしではやっていけません。もともと亮が倒れていた(おそらく生まれた)村にひっそりと暮らしていました。

しかし村人は事あるごとに2人を迫害しました。宇宙人という概念に害悪を連想して。(この表現が適切でない可能性を考慮し、可能ならば番組を見ることをお勧めします)

とある因果で、怪獣攻撃部隊MAT(帰ってきたウルトラマンにおける怪獣退治の機関)の隊員であり、ウルトラマンでもある郷秀樹はこの村を訪れ、2人から話を聞いて事情を知りました。しかし、村人は「MATが宇宙人と話をしている=手を組んでいる」と勝手に解釈し、数の暴力で郷を取り押さえ、2人を叩きのめしました。

その際、宇宙人は亮を身を呈して庇い、死んでしまいました。宇宙人が封印してきた怪獣が復活し、暴れ始めました。

村人は今まで数の暴力で取り押さえていた郷に対し、言います。
「あんたMAT隊員だろう!あの怪獣をなんとかしてくれ!」

郷は怪獣を退治します。その心境は実際に番組を見て察してください。

そして、エピローグ。
村人は言います。「やっぱりあいつは悪い宇宙人だったんだ」
亮は独りで穴を掘り続けます。その心境は実際に番組を見て察してください。

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……とまぁ、この時点でおなか一杯になるわけですが。当時の刑事ドラマや特撮はこんなネタが満載でした。ただ、ここまで端的なものはやはり当時でも目立ったため、その手の人は結構この話を例に挙げます。

ふつーの人はこれを見て、世の偏見や差別問題だとかの"社会に歴然と存在している問題"を語ります。もともと脚本もそのメタファーとして作っているでしょうし、的外れではないでしょう。

さて、長い長い前置きは終わり。的外れな論を展開してみましょう。

この物語が示唆している、最も揺るがしがたい点は「世の中は正しさを求めているわけではない」ことでしょう。もし村人が正しい事実認識を求めていたならば、宇宙人は死んでいません。怪獣も復活していません。

しかし宇宙人は死にました。怪獣は復活しました。

なぜでしょう。それは「村人にとって、宇宙人は害悪」という一方的概念が先にあり、それを阻害する事実は必要なかったからです。そこに必要なのは真実と銘打たれるモノではありません。「宇宙人は害悪」という一方的概念を補強する発言や態度は彼らに常識として受け容れられる一方で、MATが宇宙人と話をすることは「許しがたい」反逆行為なのです。

無知とは罪、という言葉さえこの場合適切ではありません。彼らに下される罰は結果としてなかったわけですから。因果応報さえ成り立たない。それが、大衆が持つ暴力なのです。正しさなど力に成り得ない。百歩譲って正しさが力になる局面があったとしても、それは永遠の「御都合主義」との闘いとなるでしょう。

2度目の閑話休題Simpleがまたとっても怖いネタを書きました。というか先週末から今日にかけて、身も蓋も無い怖いネタが各所で散見されました。これとかこれとか。

これらは、これらの視点を知らない人々の中で過ごすには非常に邪魔になります。常識のチャンネルがずれてしまうからです。知っている人との会話、知らない人との会話でいちいち常識の概念を使い分けていたらそれだけで疲れてしまいます。プログラムは分岐が少ないシンプルな構成のほうがバグが少なく回転が速いのです。だから、知らないほうがいい。

なのに知ってしまう。知らせてしまう。
何故かって? 正しさなんてこれっぽっちも意味が無いからさ――