個人にとっての経営

パートナーに求めることは何か。それは人それぞれだろう。だが、前提として「意思疎通ができる」ことはほぼ必須なのではないかと思われる。お互いの言っていることが噛み合わないのでは、大概の場合においてうまくいかない。

では、どの程度伝わればよいのだろう?

私としては「1を聞いたら1を知ることはしてほしい。だが、5まで知らないでくれ。もし5まで知ってしまうなら10まで知ってくれ」と望む。これは非常に我侭であり、理想だ。

ピンとこない方を考慮し、例えを出そう。

「割り箸の利用は自然破壊を促進するから、使わないよう努めるべきだ」と主張する日本の自然保護団体があったとする。これに対し、割り箸を作っている日本企業は「割り箸の材料は廃材(材木を作る際に素材として使えない枝や切れ端)を用いているため、割り箸が自然破壊を助長することはない」と反論する。この反論が100%事実かどうかは別として、もし自然保護派がそれ以上の知識を持っていなかった場合、この議論はここで終わる。平和だ。

だが実際は、国内で消費される割り箸の9割以上は輸入品であり、その主な原産国は中共だ。ここまで知っている場合、自然保護団体は原産国、特に中共側の生産体制を知ろうとし、もし自然破壊を促進しているようであれば改めるよう要求しようとするだろう。

では、中共はそれに応じるだろうか? ありえない。だって中共だし。それは中共の政治思想を考慮すればシミュレートするまでもない事実だ。というか中共に限らず、基本的に市場経済において環境問題対策はあくまでプロパガンダであり、主題ではない。故に誤魔化されるのがオチである。無論、度合いの差はあるが。

しかし基本的に環境問題とか理想に燃える人たちというのはこういうことを考慮しない。したら負けるからとかそういう戦略的な意味合いではなく、単に感情が受け入れない。そして感情的な攻撃は、政治や国際関係の駆け引きを無視し、時に邪魔する。こうなると手に負えない。百害あって一利なしだ。

結論として、問題は目先だけ捕らえる分には構わない。だが、中途半端に掘り下げて攻撃先を拡大すると周囲の関係を無視した害悪に成り下がる。だから知るなら可能な限り枝葉を広げ、あるひとつの問題に絡む利害関係を把握した上で挑む必要があるのだ。

これは対人関係にも言える。詳しい例を出すと結構反吐が出る類の代物が多いので省くが、各人想像してみてほしい。探偵業が成り立っているのは浮気という発想が安直だからだ。そこにそれ以上の理由は、おそらく存在しない。

パートナーは馬鹿であっては困る。だが、中途半端に賢いのはより始末に終えない。何事も程々に、という格言はパートナーの知的レベルにだけは適用してはならない。ある物事に対して一方的な側面しか眺めない視野の狭さは、結果として己自身を損なう。人間をやめてしまわない程度の俯瞰の視点こそが望ましい。

最後に。この発想は人間として冷たい。何故ならマネジメントが主体だからだ。相手を受け止めるのではなく、相手が自分にもたらす利害を主体に置いた論理だ。

この発想が通じる相手に会えたのならば、それはとても心地よい冷たさとなるだろう。お互いがその基準を外れてしまった時点で、お互いがお互いを切り捨てることを理性で納得できてしまう。考えるだけでもぞっとする。

だから私はいらない。この狂った基準を破壊してしまえるほどの人間味が、欲しい。