悪が滅びるということ

結論から言うと、違法行為や犯罪行為を包括して形成されてしまった世界はそれがなくなると崩壊する。

例を出そう。

100人の集落があった。100人は普通に暮らしていた。でもあるとき、100人分の食料のうち、20人分は略奪でまかなわれていることが発覚した。社会正義に燃える一部の者たちはこの事実を糾弾・追及し、結果として食料確保のための略奪はなくなった。一方、足りなくなった食料を補うための施策が必要だったが、社会正義を訴える者たちはそんなこと考えてもいなかった。

飢える村人。
切迫する精神。
なんでこんな思いをしなければならないのか。

こうなったのは誰のせいだ?

社会正義を主張する者たちは、略奪を実行・容認していた人間に罪をおしつける。
何も知らなかった者たちは、略奪の事実を摘発し、排除した「社会正義派」を根本的な原因と非難する。
結果、争いがおき、いくばくかの人が死ぬ。

この循環は「略奪をしていたころの生活水準」が戻るまで続くことになる。

くどいようだが、私の示す例えは概念論に過ぎない。しかし、無意識に満たされてきた人間は必ずしも悪を暴くことを望んでいない。目に見えない搾取・略奪・犠牲の上に成り立ってしまった社会構造は、それが目に見えるようになると前提となる常識が狂ってしまう。

だから、犠牲は常に必要なのだ。しかし、犠牲の上に成り立っている人間ほどこの事実を自覚せず、目先の美徳を掲げる。それが身の回りに新たな犠牲を生む行為だと自覚しないまま。