叩かれ続ける構造

出る杭は打たれる。では打たれ続けてしまう杭はどんな杭だろう。
ひとつは叩いても叩いても出てくる杭、もうひとつは抵抗してしまう杭だ。

前者は単に時を経るごとに叩くに値する何かが見つかってしまうために、その都度取り上げられてしまう。ただそれだけのことだ。

後者は叩かれたことに対して、「叩かれた側の論理」で正当性を主張するために「叩いた側の社会正義」に追撃を受ける構図だ。

そして、皮肉にもいずれ叩かれ疲れて折れてしまうのは後者だ。これは、その正当性主張が単なるプロパガンダであっても、誠実な対応であってもだ。というのも、前者は叩かれること自体はイメージダウンに繋がっても、致命的打撃にならないからこそ「叩かれ続ける」事実が存続する。一方で後者は叩かれたことに対応してしまうために余計な負荷を発生させ、資本以上に精神的なダメージが蓄積して「人間が形成してこそ成り立つ組織」を破綻させてしまう。

無論、これは単なる概念論なのでいくらでも反論の余地がある。が、憎まれっ子世にはばかるとはまさにこういうことなのだとも思うのだ。

結論:開き直るが吉。以上。