また一段

幻聴を覚えた。無理やり振り回してきた我が身だが、そろそろやばいか――
でも私の近況なんてつまらないから、ヲタネタでも絡めてひとつ例え話をしてみよう。


世界がヒビだらけなのは、世界があやふやだという現実に突き落とされることだと志貴は言った。これは実に分かりにくい揶揄だ。そして私が思うに、奈須が提供する最も大きな皮肉のひとつ。

国会とか都道府県庁とか比較的中央に近いお役所は、トップが替わると大荒れする。人事でどたばたし、他のことなど普段以上におざなりにする。これはどういうことだろう?

簡単なこと。権力者が変わると、彼らを取り巻く常識の基準が変わるということだ。最高権力者の方針が彼らの従属規定なのだから、当然だ。今まで従っていたものがなかったかのような今後が始まる。日本が戦争に負けた後、天皇が象徴として在るようになったように。スターリンが権力を握ったときに、二千万人といわれる大粛清が行われたように。

つまり、私たちをとりまく常識とか基準とかいうものは、要因ひとつでこんなにも変わりうるということだ。国境を越えれば、政治的主張のために首が斬られる。だが仮にこれが日本だった場合、彼らは死刑にならない。たとえ政治犯でも「1名を殺害」は原則死刑にならないからだ。これが米国なら、政治犯という時点でその結末は言うまでもない。常識とは、そういうことだ。

志貴は、そうした「それまでの常識に守られた世界が一瞬で壊れる」可能性の全てを見ている――私はそう解釈している。

彼のナイフの前では真祖だろうが死徒だろうが死ぬ。毒だろうが世界だろうが意味を無くす。でも、だからこそそんなあやふやな世界の中で自分が今あることに感謝できる。いつ死んでもおかしくないから、生きている今をかけがえのないものだと思える。

なんて、素敵な循環。
死が近いほうが、生を喜べるなんて。今在る何かを、喜んで受け容れられるなんて――