近親憎悪という自意識過剰

Simpleがトイレットペーパーを三角に折るネタを持ってきた。それはいいんだが、問題は参考文献である。福田和也かよ!

福田和也の名前を出すと出版界では右扱いされる(ことがある)。誤解されやすい書き方してるからな。彼の著作を読んでもらえれば分かるのだが、実にインテリ向けの内容だ。別にインテリ以外お断りの文言で書かれているわけじゃないけれど、最低限の前提知識がないと笑い所と主張の区別が掴めないのだ。

基本的に、今の世の中でふつーに悩める生活を送っているひとというのは、行動の背景にある本音を読んだりする行動が必要ないため結果的に素直な思考形態を持つようになる。身も蓋も無く言えば「言葉を真に受ける」ようになるということだ。トイレットペーパーの三角も然りで「次の人を思いやる自分に自己満足できる」なんて明文化した下心でそうしているのではなく、なんとなくそのほうがいいかなーという気分でやっているのがほとんどだ。時々身の程知らずに「トイレットペーパーを三角に折る自分」を自慢する奴はそっとしとけ。本当のこと言うと怒り出すから。

Simpleで取り上げられている『悪の対話術』でもそうだが、基本的にインテリというやつはその文章を読んだ奴が怒る可能性も加味してそういう書き方、語り方をする。実際、それまで「トイレットペーパーを三角に折る自分」にご満悦だった誰かさんが『悪の対話術』を読んだら、自分を恥じるのではなく、そういう書き方をした福田和也に激怒して散々悪口を言うだろう。それが自分をもっと貶めることなのだと気が付かないままに。

こうしたインテリ著作物の傾向を2chが好む表現に直すと「釣り」なのだが、『作家の値打ち』で鈴木光司を酷評したりしたのも本音半分、釣り餌半分といったところなのではないだろうか。私は純文学系に欠片も精通していないので、正直『作家の値打ち』にしてもどれだけ的を射ているのかは1割も分かっていない可能性が大きい。それでも『作家の値打ち』によって福田和也が「勝った」ことは分かる。

インテリとはそういうものなのだ。人を手玉に取ってこそ、文化の根底にある大衆心理を掴んでいる証拠だから。権威あるインテリ(の称号を持つ者達)を激怒させ、躍らせてこそ真のインテリ。だから私は憧れる。そういう境地に。手にすることは永遠に無いだろうけれど。

結論:人生うまくやっていくには思い込みが必要だが、お茶とテーブルマナーと衛生関連の知識はちゃんとした根拠調べて身に付けとけ。くれぐれも「思い込み主体の配慮」禁物。例えばコーヒー紅茶で受け皿に砂糖とかミルクとか個別に添えて出すのは喫茶店が利便性を高めるためであって「丁寧な対応」じゃないとかな。ちゃんとした席ではシュガーボウルとミルクピッチャー(クリーマー?)で出すのがセオリーだぞ。じゃないとインテリに笑われちゃう!